【24th】
翌朝、6時にチェックインし、マザーハウスに向かった。向かう通りには、肉屋がいくつかあった。大きさ的に、牛かヤギのようだった。肉屋は見た限りの地域では、固まったエリアに2~4件あるように思える。鶏の場合も同様に、同じ通りに2~4件ある。
マザーハウス近くに行って、入り口側なら無かったため立ち往生していると、何日か既にボランティアに来ている日本人女性に遭遇した。一緒に連れて行ってもらい、ボランティア用に用意していただいているパン、バナナ、Chaiを朝食としていただき、シスターを待った。各国からボランティアを希望する人たちが集まっていた。7:00になると、お祈りと歌があり、タウン7:30頃にシスターたちが現れた。シスターにボランティア日数と希望場所、名前を告げTemporary Passをもらって、同じ施設に行く人たちとバス、オートのシェアで乗り継いで8時に付いた。
私はDaya Danという障がい児の施設。1階と2階に区別され、1階は長期ボランティアがイベントに向けた出し物を教える。このイベントとは、マザーハウスの他施設にクリスマスなどに出張するためのものだという。特に外部に向けたものではないらしい。比較的障害の軽度な男の子が多い。2階では、掃除、遊び、食事手伝い、洗濯、着替え手伝いなどを行う。2階には、要介護の重度の子供たち~中、軽度の女の子が中心で、男の子は重度の子が数人いた。
8時過ぎから、屋上でシーツ類や衣類など洗濯物を干す。しばらくして、マザーハウスで話に聞いていた日本人の方がいらしたので、りつ子さん(1960年生まれ)だと確信した。
2階の職員や定期的なボランティアは決して多くなく、インド人の職員(マーシーとりつ子さんは呼んでいた)は4~6人、主任が1人、シスターが1~2人、そしてボランティアのりつ子さん。現在はシスターや職員の娘たちが4~5人いて、1ヶ月程手伝いをするらしい。10~13歳位に見えた。
りつ子さんが、手伝いが必要だから一人来てほしい、ということで私は付いていった。重度の子達の痰を取り除くために、左右の肩甲骨あたりを10分ずつパタパタたたいてほしい、とのことだった。医学的根拠は無いけれども、その方が痰が取れると感じるため続けている、とのことだった。ずっとたたき続けてあげるのはなかなか大変だった。まずはPinkuという曰く16歳女の子。重度の子達は、みな骨の変形が激しく、器官も臓器機能も弱い。マラリアに罹ってしまった子、抗生物質が切れると高熱になる子など。様々併発しているようである。
パタパタを終えて器官の透り良くする薬の入った蒸気を吸入させる。嫌がる。3人ほど、吸入を交換で行った。その間、10時頃だろうか、抱えていける子供たちはみんなopen spaceに連れて行かれ、ミサに出ていた。この日は日曜日だったので、みんな日曜の日の洋服を着ているとのことだった。クリスチャンのボランティアは皆一緒にミサに参加しているので、残っていたのは私と相方とスィクの女性とりつ子さん、それに看護学生の女性ともう一人日本人女性。
11時近くなったので、お茶とクッキーを休憩室でいただいた。そのビスケットが適度に甘くて本当に美味しかった。りつ子さんは、学生時代ウィーンの音楽学校でピアノを専攻していたという。行動経済成長以前の留学であったため、日本は途上国としての扱いの学費だったという。また、その際のアルバイトは大使館の子供たちにピアノを教えることだったという。そして、長期で確か26年ほど海外各地の旅をしていたという。
彼女はなぜここのボランティアを始めることになったのか。インドへ来た際、西洋人の友人に誘われてボランティアを始める。それが19年前、カーリガート(死を待つ人の家)でのボランティアだった。マザーのことはその時は知らず、後々になって知ったという。マザーは、自分自身にとても厳しい方だった、と話す。ここ、Daya danは、12年前に設立され、その際職員同然に携わっていたという。それ以来、ずっとDaya danでボランティアをしているとのことだった。もっと詳しく話を聞いてみたいと思った。
休憩を終えると、子供たちが帰ってきていた。それぞれの子供のデータがファイルになっている。どのように対応してあげるべきかが書かれていた。大概は関節の曲げ伸ばしやその他ストレッチがメイン。一緒に遊んであげるとみんな大喜び。なかなか笑わない子のツボを見つけて笑わせられるのが楽しかった。
その後、食事のために彼らを椅子に乗せて食堂に移動させる。その後、私と相方とりつ子さんで子供たちがいたストレッチルームのマットレスとクッションなどを掃除する。除菌液の入ってる水で一つ一つ丁寧に拭いていく。鏡もぴかぴかに。床もぴかぴかに。いつもは一人でやっているから助かる。といってもらえたことは嬉しかった。その後、食堂に行って食器洗いをした。次から次へとくるので終わらない。他のボランティアたちは12時になったので終わって昼ごはんを食べに行くがどうするか、といわれた。仕事は未だ残っているのでは?と思ったが、実はボランティアは午前中~12時までらしい。ボランティアは12:30までにこの施設から完全に出て、15時から午後のボランティアが2時間ほど行われるとのことだった。私と相方は他のボランティアとは昼食に行かず、仕事を完全に終わらせて、また午後もここでボランティアしようと決めた。休憩室の掃除を最後にりつ子さんと行い、外に出た。RotiにAloo curryが乗ったものを1枚1Rsで食べられる場所に連れていってあげる、とのことで付いていく。3枚ほど食べ、りつ子さんがいつも15時まで時間を潰しているという公園に行った(浮浪者対策で16時から開錠されるという謎の遊具施設が公園内ある場所)。大きな門のチェーンをくぐって中に入り、ベンチに新聞紙を敷いてお話を伺った。広場では祭りのやぐらを壊している最中で、また一方ではクリケットをする青年たちがいた。
りつ子さんは、最近タッキーにはまっているということ。たまに自分がどんなことをやっているかなどを手紙を書き、CDを聞き、日々の癒しにしているという。彼女は毎朝6時に来て、掃除などを隅々までするという。それを20年も続けている。
彼女が話してくれた、Pinkuの話。それは、先月まで5ヶ月間入院していたということだった。危篤状態が続き、毎日毎日看病に通っていたという。なんとか持ち返した今、彼女にとってPinkuは何よりの支えのようだった。
また、ある子は夜高熱を出し、シスターに病院に連れて行くべきではないかと打診をすると、「あなたが連れて行ったらいいじゃない」といわれてしまったという。病院にひとまず連れて行き、その日は帰宅した。翌日、朝施設に行くとシスターたちは皆1階に降りていて、何か変だなと感じたという。すると、施設の館長が、病院で昨晩無くなったということを告げられた。どの子もわが子同然に大切に毎日を過ごしていたが特別その子は手をかけていたこともあって、初めて、埋葬に立ち会ったという。共同墓地に埋められる子供たちは、どこに誰が埋まっているのか一つの目印も無く、驚きともっと早くにこれを知っていたらと後悔したという。日本人と韓国人で寄付を集め、十字架を立てることにしたという。他の子供たちは、今もどこにいるか分からなくて申し訳ないと言っていた。
彼女にとって、Daya danはどんな場所なのだろうか。すばらしい精神を持っているからここにずっと携わろうと決心したのだろうか。何かの使命感に燃えているからずっと居続けるのだろうか。
私が彼女から感じたのは、決して使命感に燃える何かではなく、ただ、施設にいる子供たちが好きだから、わが子のようだから、私がいなければ彼女たちがどうなったことか分からないから(危機感)、出来る限り子供たちのために出来ることをしたい、そういう思いを感じた。
施設の館長が替わる度に彼女の立場が良くなったり悪くなったりするという。設立に携わっているにも関らず、決してそれに見合った目に見えた表彰などの評価やpayがあるわけじゃない。適切に評価される環境は聞く限りほとんど無く、決してきれいごとで続けてきている人ではない。彼女はその状況に対して以下のように話す。
「私はシスター達が功績を評価されているように評価されることはない。職員や館長によって立場が悪くなったりする。でも、マザーは常に自分自身に厳しかったし、今私のやっていることはきっとマザーが言うような自分への試練なんだと思って日々を過ごしている。評価されたりちやほやされたりしていたら、マザーの教えからは離れていってしまうかもしれない。だから、わたしはこれでいいんだ」と、マザーの教えのように自分は日々の行いをするのだと、しているのだと、いうことだった。また、以下のようにも言っていた。「自分自身のことができないのに誰かの世話なんて出来ない。きれいな場所できれいな服を着てボランティアなんて出来ない。マザーはそう言っていた」と。それは、特に日本の旅行会社がボランティアを商業に組み込んでいることから、そこに参加している人たちが言われたことをやって汚れる仕事はやらないで、時間になったらサヨウナラ、という風に感じているからの様だった。
そろそろ戻る時間という時。タッキーの中古CDと漬物を日本から送ることを約束して仕事に戻った。午後はまず、軽食の時間になるので子供たちを椅子に乗せて食堂に連れて行く。寝ていた子達でおねしょしている場合のみシーツと洋服を交換してあげる。布オムツの取り替え方が分からなかったため、シーツ交換を行った。
その後、食事の手伝いをする。みんなよく食べる!体の大きい子や男の子はやはりよく食べるので、スプーンを運ぶスピードも速くなる。一生懸命食べている子供たちを見ていると、生きているその力を感じずに入られない。
食事が終わった子から薬とビタミン剤を飲ませ、ベッドに寝かしてあげる。そして掃除し、ひと段落。軽度~中度の子供たちはおやつを食べる。Rossogolaとケーキ(りつ子さんはこれにも憤っていた。反応が明確な子達ばかりに手をかけるのはおかしいと)を食べさせてあげた。そして一緒に遊んであげた。こちょこちょは、万国共通で子供たちが喜ぶようだ。そうこうしているうちに17時になり、ボランティア終了の時間になった。
<マーシー達は、顔を拭いてあげる時、布でごしごしする。移動させる時、まれに右手足をつかんでぶらりとした状態で移動させる。シスターの子供がとある中度障がいの女の子を思いっきり叩く。障がい者に対する人権はどう考えているのだろうか。決して全ての人に献身的な好意を徹底して行え、とは言わないし、そのような心理的なものは強制することなどできない。しかし、彼彼女たちは人なんだということ、言っていることは感じ、相手の気持ちだって敏感に察するものだ。反抗しない、何も言わない、だからどんな扱いをしても良いと思っているのではないかと、ふと思ってしまう悲しい場面に幾度とであった>
サダルストリートにりつ子さんと共にメトロで戻り、私たちは夕食に向かった。
@Khalsa
・Irani Chicken 55Rs
・Parasa(BigBread≒ナンピザ) 20Rs
この店の料理は美味しい。塩分が強すぎることも無かった。
近くにあるジューススタンドで、バナナラッシー(15Rs)を飲んだ。19歳の青年、自称のぶひろ(本名は忘れた)がいつもいる。とても面白くて変なやつ。のぶひろがいたからこそ他のところではなくここでラッシーを飲みたいと思えたのかもしれない。味もココのが一番好きだ。
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