2010/11/20

Check the real.

Face the real.

■Journeyman Pictures
http://www.journeyman.tv/

■BBC
World Service-Documentaries
http://www.bbc.co.uk/worldservice/documentaries/

Film Network-Documentaries
http://www.bbc.co.uk/filmnetwork/films/

見つけたら随時更新。
オススメがある方はオススメポイントと併せて是非教えてください。

2010/11/10

あなたにとって「家族」って何ですか?

あなたにとって「家族」って何ですか?
何を思い浮かべますか?



雑誌、「週間金曜日」@syukan_kinyobiから、タイトルにあるアンケートが流れてきた。

血の繋がり、自分の歴史、親兄弟姉妹・・・

色々と考えてみたけれど、私はこう書いた。

「私にとって家族とは、帰る場所。
どんなに苦しくても、つらくても、
帰る場所があるという安心感をくれる。
安心できるのは、
私を無条件で理解しようとしてくれる人たちの集まる場所だから。」


血の繋がりを持った家族、彼らを思えば私の家庭はその通り。
自分は両親や祖父母、親戚にとても恵まれているのだと実感する。

改めて自分の文章を読み返し、そう思う。

一方、私にとって「家族」は血の繋がりだけを意味するものではない。
血の繋がりだけに限定したくない、といった期待が大きいと言った方が正しいかもしれない。

少なからず、多様な人との関わりや、様々な情報に触れてきたことで、
血の繋がりだけが、全てではないと感じる。

血が繋がっていなければ、「家族」ではないのか。
血が繋がっていれば、「家族」なのか。

親がいなければ、親類がいなければ、兄弟姉妹がいなければ、
「家族」はいないのか。

肉親はいないかもしれない。

でも、私は安心を感じれる場所は「家族」として認識してもいいのではないかと思う。
その安心が、無条件で自分を受け入れてくれる人によって紡ぎだされるなら、
それは、「家族」だと思う。
そう思いたい。

「週間金曜日」さんから頂いた上記コメントの載っている号と、書籍。
ありがとうございます。

議論を呼ぶテーマ

この記事を読み、何を感じ、また何を重視すべきだと感じますか?

~~~~~

「アフガンへ防衛医官ら派遣検討 日米首脳会談で表明へ」
 菅内閣はアフガニスタンへの人的支援の一環として、自衛隊員の医官や看護官10人規模を派遣する方向で検討に入った。北大西洋条約機構(NATO)によるアフガン国軍や警察の訓練で、教官不足が深刻化。NATOや米国から派遣を要請されているためだ。13日の日米首脳会談で菅直人首相がオバマ大統領に派遣検討を伝える見通しだ。
 防衛省によると、医官らはアフガンの国軍病院で医師育成を行うことが想定されている。派遣の根拠は防衛省設置法4条の「教育訓練及び研究を行うこと」とする方針。2008年以降、同じ規定に基づきアフリカのPKOセンターに陸上自衛官を講師として派遣している。
 アフガンの治安部隊の強化策を話し合うNATO首脳会議が19日に迫り、日本政府関係者は「NATOは人を出してほしいと言っている。比較的ハードルが低いのが医官の派遣だ」と説明している。
 ただ、アフガンでは、反政府武装勢力タリバーンの活動が活発で、国連施設への攻撃も続いている。こうした地域への派遣を設置法が想定しているかどうかについては有識者の間で疑問の声があり、政府内にも慎重論が残る。今回は趣旨が教育訓練で武器を携行しないため、安全性をどう確保するかも大きな課題だ。
 現地で活動する国際協力機構(JICA)やNGOへの影響も懸念されている。JICA関係者は医官の派遣について「反対だ。医官とはいえ、アフガニスタン国民には『日本が軍を派遣した』と伝わる」と指摘。アフガンで医療活動と水源確保のための用水路建設を行うNGO「ペシャワール会」の福元満治事務局長も「民生支援を徹底した方がいい。自衛隊派遣を理由に、武装勢力が我々をターゲットにするようなことになったら困る」と話している。(河口健太郎)


asahi.com
2010年11月10日22時4分 
~~~~~


NATOの要請だから人(医官)を派遣するのか。
人を派遣すること、それはつまり軍隊を派遣し、命の危険を負ってほしいということだろうと思う。
何故、「それは我が国の方針ではない」とし、日本だから可能な方法を堅持しようとしないのだろう。

抜本的な変化の時期に来ていると、感じることは無いのだろうか?

協調と迎合は違う。


~~~~~
追記
NATOから人の派遣という要請を受けての医官派遣、その場合、
集団的自衛権の行使という、違憲行為に抵触する可能性がある、とのこと。

2010/11/05

Check this out!1

クラスター弾被害、1万6千人 国際NGOが初報告


 【ジュネーブ共同】クラスター(集束)弾を全面禁止する条約の第1回締約国会議が9日からラオスで開かれるのを前に、国際非政府組織(NGO)「クラスター弾連合」は1日、2010年版の「クラスター弾モニター報告」を発表し、09年末時点でのクラスター弾による被害者は少なくとも30カ国・地域で累計1万6816人に上ると明らかにした。



 モニター報告は今年8月1日に条約が発効したのを機に初めてまとめられた。ただ、各国からの「過少申告」が目立ち、実際には被害者は最大8万5千人と推定されるという。09年にはラオスやレバノンなど10カ国・地域で新たに100人の被害者が出た。



 クラスター弾は1発の親爆弾が空中から多数の子爆弾をまき散らすため、クラスター弾連合は、被害拡大の防止に向け、残った不発弾の迅速な処理を求めている。

2010/11/01 19:40 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010110101000888.html
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Japan Campaign to Ban Lindminesより

2010年11月1日、『クラスター爆弾モニター2010』
http://www.jcbl-ngo.org/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=307&comment_flag=1&block_id=24#_24

2010/11/03

メモ

インド旅行記、もはや書きなぐったノートをそのままワードに落とし、blogに載せた。
散文乱文過ぎる。
脂肪がたくさん付いてる。

また書き直そう。

何を感じ、何を思ったのか。
インドを通して私の何が変わったのか。

それだけをメモして。

2010/11/02

インド旅行記 番外編

■番外編ストーリー:

1、メトロの車内で人間観察

・Kolkataの布(サリーやKurti)は鮮やかで、かつ大きな花柄のプリントが多い。他3都市ではカラフルではあるが一色で、あまり大きな花柄は見かけず、縁に飾りがあしらってある、シンプルなものが多かったように思う。



・電車には女性用車両と、女性用の席がある。年配者や身体の不自由な人、女性には席を優先的に譲りましょう、とのことだった。男女でたまに女性用席に座ることがあるが、他の女性がきたらすぐに席を譲っていた。女性用車両以外に乗った際(Delhi)に、何故女性車両があるか分かった。女性は基本的に外に出ないので乗車人数が少ない。しかし男性はすし詰め状態。その中で四方を男性に囲まれて、立っているのもやっと。そんなに密着することは日常でありえないことなので、インドの女性にとっては極めて落ち着かない、避けるべき状態なのだろうと思った。私は東京で慣れているからなんとも思っていなかったが、周りの男性は‘何故この女の子はここにいるんだ?!大丈夫か?!間違えたのか?!何があったんだ?!ちゃんと降りれるのか?!’というような目と、それらしい発言と、挙動だった。どぎまぎさせてしまったようだ…笑 周りの挙動を観察できたのは面白かった。



2、Kolkataの美しい夫婦

公園の周り、垣根に座る一組の男女。浮浪者なのだろうと思われるその二人、何も持たず、着の身着のまま生きている様子。

どこかで手に入れた参拝で使う供物用のマリーゴールドの首飾りとハイビスカス。連なっている首飾りを、男性は手にとって女性の頭に器用に、帽子のように、飾ってあげていた。ハイビスカスを両耳にかけてあげた。恥ずかしそうに女性は少し伏せ、照れながらまた男性とともに顔を上げて、二人は私に微笑みかけてくれた。

ほほえましさと、美しさを感じた。

お金も、物も、今日を生きる保証も何も無いけれど、ただ一心に相手を思い遣る気持ちが、その一瞬を永遠に美しい優しい光に変えた。言葉でも写真でも、決して表せない何かをその一瞬に感じた。この気持ちを、ずっと忘れたくない。いつかはこのイメージと感覚を忘れてしまうかもしれない。だけどいつか、着飾るものは何も無く、優く包み込むような光を、きっと自分も感じたい。



3、子供たちと犯罪

私は子供たちのやんちゃな幼い心を信じていると共に、彼らに魔が差さないよう気を配っていた。それはどこの都市でも同じ。不用意な隙は見せない。それは私を防衛することではなく、子供たちに魔が差さないようにすること、つまり彼らを守ることになるだからだ。自分を守ろうとすれば、それだけ相手への警戒は増える。私は、今回はたまたまラッキーだっただけかもしれない。けれど、私がすべきことはこれからも変わらずに、自分の防衛ではなく相手の防衛を一番に考えることだろう。相手の防衛、それは「もしも私が貧しくて食べるものに困っていたら、どうするだろう。目の前に無防備な日本の家電製品があったらどうするだろう」そのように考え、相手にとって何をすべきではないかを意識することだと思っている。

自分の作る隙は、相手への魔の手である。彼らを物取りとして疑うより先に、まず自分の行動が彼らにそうさせる状況を作っていはしないか、それを省みる必要がある。今文章にして初めて、それがイメージとして繋がったが、旅行中はそんなことは明確に思っているわけではなかった。ただ、彼らとどうやって、どこまで近い距離になることができるか、どうやって気持ちを遠ざけないようにするか、どうやってON(商売、生きる)ではなくOFF(子供らしさ、無邪気さ)に切り替え、継続させるか、それだけを考えていた。また、これとは別に「いつ何がなくなっても、命さえあれば何とかなる!何か無くなったらその時考えればいいや!何とかなる!」と、神経質にならないよう、「No Problem!」と、インド風に考えていたのも良かったのかもしれない。



4、No Problemの功罪

ゴミのポイ捨て、上下水道処理不行き届き、賄賂、何かが壊れていても基本的に使えればそれでいい、小さいことから大きいことまで良しとすることが出来ない問題は数え切れないほどある。

だけれど、こう考えることも出来る。

No problem! それは相手への優しさの言葉。

「大丈夫、何とかなるよ!さぁ、どうしようか?次に何をしようか?」

ある人が言っていた。インド人はみんな笑顔だと。

笑顔の理由は、こうだ。

We think the future, do not mind the past. What is important is to think what we do next.

過ぎ去ったことをくよくよ、ずっと考えていては先に進まない、未来、将来、これから次に何をするかが大切なんだ、と。

一人一人歩幅が違うように、国や文化によって国柄も地域柄も人柄も、各々も、たくさんの考え方とバックグラウンドを持っている。子供と大人は同じ歩幅で歩けない。子供は少しずつ成長する、だから、どうすれば成長を促せるのかを考える。決して子供の歩幅が小さい事を責めたりはしないし、大人で1分で出来ることが10分もかかっても、9分かかったことしかったりはしないだろう。

もしもそれがビジネスなら?時間との戦いだから、マネジメントできるように自分が変わればいいのではないだろうか。人に変わってほしいなら、その思いはイライラや責めることからは、まして適切には伝わらない。自分も相手も、納得できる方法を見つける、それが大切なのだろう。だから、No Problem! If there is a will, there is a way. きっと、何か道がある。だけど、それは今見つかるのではなく、10年先に見つけられる迷路の先の道なのかもしれない。だから、今ではなく、think your future.



5、宗教と生きる人々

8割ほどがヒンディー教だが、必ずしも彼らだけが過ごしているのが目に付くわけではない。イスラム、Shik、仏教、キリスト教など様々な宗教宗派が入り混じっている。文化も生活も、多種多様。「インド人」と一括りにしては、何を見ることが出来るのかわからない。性別、カースト、宗教、社会的地位、貧富、地域、職業、何をとっても奥が深い。

インドは‘スパイス’のような国だと思う。

一口に含む。見たことの無い、聞いたことのない、初めてのスパイスが入った料理。辛いのか、甘いのか、苦いのか、すっぱいのか、しょっぱいのか、エグみがあるのか、香りが強いのか、無味無臭なのか、表現が難しい何かなのか。口に含んだ人にだけわかるが、同じものでも一人一人その感じ方は違う。そして、多くの一様ではない表情を持っている。何度も何度も口にして、様々なレシピを参考にして、近く近くになるように。そんな、インド料理に使われる数多くのスパイスのような、そんなスパイス’mixの国じゃないだろうか。



6、私の「インド」

日本で聞いたインドはこうだった。

インド人は騙してくる、インド人は嘘つく、信用するな、物が盗まれる、身を引き締めろ。



インドで感じたインドはこうだった。

インド人は見かねて道案内をしてくれる、困っていたら助けてくれる、友情の印にchaiを淹れてくれる、何も買ってもいないけどお土産をくれる、無邪気な笑顔で溢れている。



百聞は一見にしかず。一期一会はインドに根付いている。



「Hi, My Friend! Are you Japanese?」

あなたならどちらに取りますか?

「日本人だ、お金があるやつがきた!」

「おぉ!お前面白いな!初対面だけど友達になっちゃおうぜ!」



旅の始め、客引きは全て無視するかキツくNoと言っていた。そしたら疲れてしまった。

数日後、声をかけられたら全て返答するようにした、笑顔で振り向いて。するとどうだろう、リキシャワーラーは付いてくるどころか、笑顔で道を説明してくれた。にいちゃんたちは客引きとしての話をしなくなって、代わりにChaiに誘われるようになった。子供たちは照れくさそうに、大いに喜んで、挨拶と笑顔が連鎖していった。子供たちを見ている親も笑顔になった。



だって、人間だもの。



だれだって、笑顔の嫌いな人はいないのだから。

邪険に扱われて、嬉しい人なんていないのだから。



大人の、OFFの瞬間を引き出すためには、簡単だった、笑顔が必要だった。

Moneyが easy come easy goならば、Smileは easy come easy stayではないだろうか。



笑い方を忘れたら、無理にでも顔を動かしてみる。

変な顔をしてみる。好きな人を笑顔にしようと、考えてみる。



笑い方を忘れた人がいたら、ただそばに寄り添ってあげる。

その人を必要だと伝えてみる。その人を好きになってみる。



いつか世界中の笑顔が連鎖して、笑い方を忘れてしまった人がいなくなるように。



いつか自分が、あのKolakataの美しい夫婦に見た優しい光が見えるように、まとえるように。





2010年11月3日

am1:00 Japan /pm21:30 India

インド旅行記 14

【29th】


起床し、朝食を食べ、午前中はChandni Chowkへ行く。サリーを買うのであれば、ここ。物凄く多種多様の生地を扱っていた。ここのマーケットはさすがに女性が多く集まっている。結婚式用の生地も取り扱っていたので、価格はピンきり(14800Rsのものもあった!)。

Jama Masjit、Red Fort、Shik寺院を外から眺め、ある通りを入ると携帯がたくさん売っていた。飼う気など毛頭無かったが、iphoneがあったので指した。すると、「50!いや25だ!」100円??50円??笑 桁が省略されていると思われるが、壊れるのではないかと正直心配になる。電化製品やゲーム機器、海賊版ゲームやDVD(Bollywood、子供用~18禁まで何でもあった)。貴金属や宝石類を扱う店も多かった。ここで購入するものは特に無かったが、見ているだけで十分面白かった。Pahar Gandhiへ戻り、昼食をとり、お土産用、自分用の買い物をしばしばする。客引きのにいちゃんたちで、何度か会った人たちの店にも仕方が無いから行ってあげた。買い物しないよ!と言って、本当にしないのだから彼らは困ったものだろうが、中には、「今日で最後なの?!small presentを君に」といって、小物入れやネックレス、キーホルダー、ヘナのおじさんからも右手にアート。

一期一会を大事にする、そんな人たちに出会った。また彼らに会いたくなる。単なるナンパで声かけてきたりする人もいるけど(どこから来たの?名前は?どこ行くの?お店来る?こないの?ね、Chai行こう?)、なんだかんだ言ってチャラいけど良い人たち。Chaiに行ってはいないけど、いつか機会があったらこの人たちと一緒にChai行けたらいいな、と思う。Lov ya all, my funny frieds on Pahar Gandhi street!



空港へ向かう。駅でプリペイドオート(190Rs)チケットを購入し、乗り込む。オートの入れる場所ぎりぎりのところで下車し、無料シャトルバスに乗り込む。Phir milen-gay Delhi, phir milen-gay children, phir milen-gay 全てが入り混じった、汚くも美しい、生きる、India。

インド旅行記 13

【28th】


遅くに飲んでいたので、翌日朝は9時近くまで寝ていた。まず、地球の歩き方の電話番号は繋がらなかったので、改めてインターネットで調べた。なんと、time starにメガネがあった!しかしメガネケースは無いので郵送できないとのこと。ネットカフェのお兄さんの友達がコルカタから来るときに持ってきてくれる、とのことだった。本当に助かる。1~2ヶ月かかるとしても、新しいのを買うより十分安い・・・うまくいけばいいな!ダメだったらそのとき!No Problem♪

朝はリキシャワーラー、特にサイクル、が来るようなお店に行ってみた。揚げた魚のカレーがあるお店。

・Tengra FishのPlate(カレー2+ご飯) 40Rs



Pahar Gandhiを歩いていると、なんとMBSで会ったAkiさんに遭遇!

その日の夜19時過ぎにDelhiを出発するらしいので、18時に待ち合わせして夕食を一緒に食べることを約束した。



メトロで、Seelampurへ向かう。改札を出ると、一気にブルカを着た人たちが増えたように思えた。Zafrabadというエリア、そこが私の向かう場所。ただ、どこがその地域なのか、どうやって行くのかよく分からなかった。

ここでは英語は一切通じなかったので、とりあえず「Zafrabad!」とだけ言い続け、オートで近くのエリアに連れて行ってもらった(場所を間違えていたようで、本来は乗る必要なかった)。この一帯は粉塵や排ガスがとても多く、マスクがないと咳が止まらなくなる。ムスリム、ムスリマが本当に多い。ブルカを被り目だけを出した女性も数多く見かけた。建物は2階建が多く、レンガで出来ている。屋上が必ずあるが、造ろうとして造ったのか取り払ったのか分からないような、壁の高さは不揃いだった。自転車のタイヤ屋さんが多いように思った。

オートを降りてから、Kurti(ひざ上スリット入りワンピースとレギンス)を着ていた私はなんだか恥ずかしくなった。外国人というだけでも珍しく、ましてや体系がはっきりしている衣服を身に着けている。完全に浮いている・・・!!!がどうしようもないので気にしないことにした。

探している団体の建物を尋ねた。「Gender Resource center?」みんな分からないと答える。「Bable Uldoom Madrasaが200m程先にあるから、そこに行けば分かるのでは?」と警官の人に教えてもらった。しかしMadrasaでは英語が話せる人はいなかった。もしかしたら道路を挟んで反対側の方かもしれない。若干、そっちの方がより貧しそうな風に見えたからだ。向こうへ渡って、中へ入っていく。そこは雰囲気が明らかに「スラム街」だ。水が不衛生で、緑色をした水が水路を通っていた。ハエがやたら多い。このままではどこに行けばいいかわからない・・・そう思い、目の前から歩いてきた人に話しかける。‘きれいだけど化粧がやたらハッキリしていて濃いなぁ’と思ったら、声が若い男性の声だった。2人はMr. Lady(?)だったんだな~と。彼女たちが教えてくれた「3が見えたら右に曲がって」は結局3がどれかわからなかったが、確かに施設があったのは「区画3」という感じの場所だった。イスラム教徒が多いこともあり、牛肉屋も多く見受けられた。しばらく歩いて、少しだけ英語の分かるお医者さんにGender Resource Centerをヒンディーに書き直してもらって(本当は翻訳してほしかった)、人に訊きながら先に進んだ。何人かしばらくついてきて色々なところへ連れて行ってくれた。途中で住所を持っていることを思い出し、見せると、ライムグリーンのサリーをまとったお母さんが連れて行ってくれた。ずっと付いてきてくれて、施設まで連れてきてくれた。そのお礼に少しだけガイド代を渡したかった。「Child? Chocolate, chocolate」と言って50Rsを渡そうと引き止めたが、再三断られてしまった。お母さんはなんて優しい人なんだ、と思ったので嬉しくなってハグして別れを告げた。

GRCは女性のエンパワーメントを目的とした事業を行い、政府からの助成金を得ている(そういった制度が存在する。前述のTrustも確かそうだったはずだ)。3つの事業、という制限を受けているということもあり、ここで行っていたのは以下の三つである。



■事業/コース

・識字教室 ヒンディーと英語の読み書き、計算

・手工芸技術 手工芸品作成は賃金が低いという 6ヶ月以上受講ライセンス発行

・美容技術 ヘア、メイク、ヘナなど 6ヶ月以上受講ライセンス発行



■傾向

・識字 未就学者が大半だが、金銭的理由で学校を退学した者もいる 12~40歳 ~15人

・手工芸技術 仕立て料(100~200Rs)節約や友人へ教えることでの収入(50~60Rs)

・美容技術 サロンへ行って仕事をすることができる 最も受講者が多い 10~15人



■受講まで

情報の少なさや貧しさから封建的、伝統的傾向が強いため、女性は家で家事と子育てだけやっていればいいと考える男性が多く、またその意識が強い。受講を希望する女性が現れた場合、受講に至るまでに男性(父、夫)の説得が必要になる。簡単ではなく、十分な説得には時間を要すという。

女性が経済的に力を得ることで、彼女たちの自信にも家計への貢献も可能になる。



<何人もの女性が受講し、家計の足しにできるような経済活動を行うことができるようになっていく。女性に対する教育の重要性は様々な文献で言われているように子供や家族への影響力があるため波及効果が高いとされる。ただ、効果が目に見えるのは、長期で経過を図ったときでしいかない。躍進的ではないからこそ、急激な変化が訪れるわけではないからこそ、ゆっくり、確実に定着していくのかもしれない>



施設の近くには、多くのサイクル修理やさんが連なっていた。経済的に、サイクルリキシャー、自転車が多く走る(職業としても経済面でも)この一帯では本当に重要な役割を担っているようだ。子供たちがサイクルリキシャーごっこ(と勝手に名づけた)をしていた。一人がリキシャーをこいで、二人の少年が席に乗っていた。笑顔が弾けていた。外国人相手に英語で交渉できる、お金の勘定できる、しっかりした大人になるんだよ!頑張れ将来の大黒柱!



メインの通りに抜けるが、どこが駅だか分からず、地図を広げて現在地を警官に聞いてみた。そばによってきたお英語を勉強したから使いたくてたまらない、といった小柄なおじさんも加わって、「あっちが駅だよ!真っ直ぐ行くとWelcome Metroがある」と。お礼を言って歩き出すと、しばらくしておじさんが「私も行くから一緒に行こう!」と。一緒に行けるのは助かる!と思い、おじさんと他愛の無い話をして駅へ。極めて混雑している交差点(車道)を人と車とを縫って歩かなければならなかった。おじさんがいなかったらどうなっていたことか…本当に感謝!

駅へ付けば、もう分かるのだが、おじさんは「チケットはここで買うんだ。どこまでだい?そうかNew Delhiにいくんだね。すると…15Rsだ。いいかい?」

プラットフォームで一緒に電車を待とう…と思ったら「Lady’s compartmentはこっちだよ!さぁ、こっちこっち!」と、連れて行ってくれた。そして去っていく。と思ったらすぐに戻ってきて、「○○駅で乗り換えるんだ。そこで乗り換えてNew Delhi駅だよ!大丈夫?分かった?」と、乗り換えの駅を路線図でわざわざ調べて来てくれたのだ。

このおじさんの心からの優しさに、本当に感動した。なんと自然体でジェントルマンなのだろう。このエリアでは、本当にたくさんの優しさを頂いた。嬉しい気持ちで一杯になった。



New Delhiに戻り、ヘナに挑戦しようと思った。ブラウンカラーでやってもらった。おっちゃん(30歳前後?)は腕がよさそうで、人もよさそうだし、とても丁寧にペイントをしてくれる。仲良くなったので、日本人向けに価格表とコメントを書いてあげた。ブログや友人に紹介すると約束して、写真を撮ってあげた。

名前はサルバンさん、Y字になっている(夜は牛が集まる広場の横)中州の赤い何かのところで運営している。5年間ヘナアートをしているという。

■Menu <色(色持ち期間)と長さによる価格 / 長さ:手甲―腕の中間―肘>

・オレンジ(2~3日):25-50-75Rs

・レッド(1週間):50-100-150Rs

・ブラウン(2~3週間):75-150-225Rs

・ブラック(1ヶ月):100-200-300Rs

※彼の言い値である。ただ、腕は確かなので、無駄に太い線を描いたり、雑にしたりは一切しない。道を歩いている客引きのにいちゃんたちや、他の外国人に「そのヘナ、すごくステキだね。」と言われるし、実際他の人のヘナを見せてもらったけれど、確かにサルバンさんは腕がいいようだ。

彼自身のデザインもあるので、デザイン料を払ってもいいと思える場合は是非いくらか+αしてほしい。

日本人は特に値切る文化がごく一部にしかないため、定価が目に見えないと不安になるだろう。また、英語が話せない人も少なくなく、日本語のメニューがあれば基準が分かるため、安心感を幾ばくか抱いてもらえるのではないか?と思う。サルバンさんにとって、私のメモが役立っているといいな。



宿に戻る。18時、Akiさんが来て、もう一人Takiさんと一緒にMadan Café Roof Top Restaurantへ。お腹はすいていなかったのでみんなケーキやChaiなど軽食で終わった。1時間弱話をして、Akiさんは空港へ向かった。ネパールにしばらく滞在し、日本へ帰国する。タキさんは26歳で、2週間ほどインドに滞在、ヨーロッパの方に行くのだという。その後‘ラブリー:Rabri ’という、スペルがわからないがよく売っている(寝台列車でも「フルーティー,ラッシー,ラブリー」と売りに来る)、ミルクっぽい、チーズのような食感の、とろっとした、甘~いお菓子を食べに行った(18時前にも食べたが、食べさせたかったので連れて行った)。NDL駅の通りに近いPahar Gandhiの入り口、18Rsで食べられる。Rabriも漏れず、インドのお菓子はどれも砂糖の過剰摂取になるような甘さだが、他の戸は違いミルキーな味で、好き。人によると、食感は、雪見大福の皮…らしい。



水を買うためにふらふら、買い物できるかな~とふらふら、その辺にいるにいちゃんたちと会話を楽しんだ。そしてY字の、牛たちがいるところで子供たちがコマをしていた。それを写真に撮り始めると、子供たちはテンションが上がって「撮って撮って!」と。いつの間にか少年たちが大量に集まってきて、20人くらいになっていた。良く分からないけどもみくちゃにされながらも、元気一杯でやんちゃな少年たちの最高の笑顔がカメラにたくさん残っている。

途中、ジェスチャーで通りすがりのどこかの店のおじさんが「この子達にカメラ盗られるぞ」言った。私はこう言った「No Problem!」とね。無くなったらそのときはその時。壊れたらそのときはその時。いつか壊れるし、無くなるし、でも、今手元に何もなくならず全て持っている。一つとして知らぬ間に失くしたものは無い。私の不注意で放置してきたものはいくつかあるが…笑

インド旅行記 12

【27th】


10時からDelhiにあるStreet Childrenを支援するSaalam Baalak Trust という団体が、自立支援の一環で行うCity Walkに参加することになっていた。

@Madan CaféでBreak Fast set(35Rs)を食べ、connort place(CP)近くのRail way ticket reservation center(?)に集合した。

道に迷って15分ほど遅刻してしまった。

ガイドさんの名前はShahadatt(Mr.B、Bollywood のBだという)、22歳。

6歳の時に父と出稼ぎにDelhiに来て、残してきた弟たち(姉妹4人、兄弟4人)に会いたいと、New Delhi駅に向かうが、迷子になってしまった。声をかけられて雇われて物を売るがタダ働きだったため逃げ、次に声をかけてきたのはムスリムのPick Pocket(スリ)。その方法を彼が一生懸命に教えてくれたが、一度も成功することは無かったという。その後、Trustの職員からシェルターに来ないかと言われ、一度は断るが、後にテレビがあるということでテレビが見たいからシェルターに行くことにしたという。

彼はまず、子供たちがなぜStreet Childrenとなってしまうのか、彼らは日常何をしているのか、食事や寝る場所はどうしているのか、などを話してくれた。



■Street Childrenになる理由

1、アルコール依存症の父親が酒のために子供を売る

2、Dawryの資金を貯めることが出来ないために捨てられたか売られる

3、大都市に出ればBollywood starになれると思い、家を出る



■稼ぎ方

レストラン、Chai売り、スリなど

大人に声をかけられ、寝る場所と食事を与えられるがタダ働きのことがしばしば



■子供たちが稼いだお金の使う先

・Drug ‘white out’文房具であり、安いため最も多くの子供たちが使っているという

・Entertainment(movie, game center)



■食べ物と寝る場所

・Shik templeは誰にでも無料で食事を提供している

・路上に落ちているものを拾う(FORTUNATELY, there are lots of food on streetと言っていた)

・路上で寝る そのため持っていたお金は寝ている間になくなることも多い



■シェルター及び学校

シェルターに来る子は多いが、入れ替わり立ち代りで長期に及ぶことは無いという。6ヶ月程度で入れ替わるということが多いといい、理由はthey love freedom on street、そのために戻ってしまうのだという。

勉強は二箇所で行われていた。一つがpahar gandhiから地少し路地に入った静かなところにある4階建てほどの建物の3階。施設の門番/警備員がいるため、開けてもらってはいる。ここは男児専用のため女の子はいなかった。女児用シェルターは国政空港の近くにあるという。ここではその時間に英語を教えていた。6~17歳の子供たちが多く、18歳になったら自立のためにこのシェルターからは出て行くのだという。このシェルターを卒業し、カメラマンやダンサーなどになり、活躍する人たちの写真が掲載されていた。モデルケースが明確にあるということは、子供たちにとって明るい光となっていることは間違いない。

もう一つはNDL駅のすぐ横にある事務局のある建物。子供たちは少数だった。ここには併せてMedical clinicや体重計があった。理由はナイフを使うことも含め、ケンカがしばしば起こるから、ということだった。

NDL駅のロビーで、Mr.Bがあるモニュメントについて説明してくれた。左側の壁に、たくさんのChai売りのセット(ヤカンやカップなど)がかかった自転車のモニュメントがある。

Theme:‘CHAI GARAM’(=Hot Chai)

Means:‘Children are easy to sell chai’

Explane:何千何万人と利用するNDSでは、1日毎数百人の子供たちが行方不明になっている。子供たちはChaiを売るのに適しているから、いつ自分の子供がいなくなるかわからない。わが子がChaiを売るために連れて行かれないよう、子供の手を離さないで、しっかり見ているように。そういう戒めのモニュメント。(無数のヤカン=無数の子供たち)



このStreet Walkでは、10時集合、30分説明、1h~1.5hPahar Gandhi周辺をガイドによる説明で散策する。ただ道を歩くのみでは過ぎ去ってしまう、なんとなく目に入るだけの景色や物、人々の働き方など、気がつかなかった生活、文化を知ることが出来る。例えばたまに様々な宗教の神様や教祖がタイルに描かれて壁に埋め込まれている、それは公衆トイレの設置と併せて、ここで立ちションしないように、ということだった。神様らがいれば、ここをキレイに使用するに違いないという思惑で設置されているなど。

参加するにはTrustのサイトで事前に参加表明のフォームに連絡する。参加費は一人200Rs、運営資金としてWalkの終了後に事務局で会計係に支払う。Lonely PlanetにはこのTrustが載っているらしいが、地球の歩き方には掲載が無い。Walkは完全に英語である。日本語を話せるスタッフはいない。ただ、地球の歩き方を読む、英語を話せる人は多くいるはずだから、その人たちに向けてこのWalkの掲載を依頼することをスタッフの人たちに約束した。



<可能だろうか、私はここでスタッフとして1月から3ヶ月ほど働けないだろうか。入国不可の期間(11~12月)は遠隔での作業も含め。英語が話せれば何とかなる。スタッフは基本的に英語、ヒンディーを使って教えるということは特になさそうだが、ヒンディーを覚えるいい機会にもなるだろう。この旅行記を書いていて、ふと思った。本当に可能なら、資金を何とかして集めて、私は3ヶ月行きたい。卒業式は、出られなくても良いや笑>



スタッフの方にDowryの話を幾ばくか伺うと、Center of Women studiesという場所が様々な貯蔵書籍を揃えて郊外(空港方面)にあるという。時間を作れず、そこには行かなかったが是非言って話を聞きたかった。



昼食は書籍販売をしているPahar Gandhiのお店

@Grand Sindhi restaurant

・Chilly Garlic Chowmin(焼きそばのようなもの)50Rs



相方は体調が優れず、宿で休憩。18時にCPのBブロックのマックで待ち合わせした。

散策がてらCPまで歩く。CPはマッサージやヨガをやらないか、というような客引きが面倒だったが、少し外れたところにあるお菓子屋さんで3種類(20Rs?)くっついてきたおちゃんにオススメしてもらって食べた。Milk Cakeはまぁいけるかな。やっぱりすごく甘いけれど。黄色いロールは塩味で、甘すぎるお菓子の箸休めというか休憩に丁度良い感じだった。

その後、本屋さんに行って薄い料理本(95Rs)を購入した。CPの内円を歩いて、お散歩することにした。すると突然すれ違った人に「Pahar Gandhiであったことあるよ!」とCPに買い物に来た格好ではないおじさんに声をかけられた。色々な情報を聞いてみたが、全く知らない人。彼も私の名前を知らない。私はあった人は全員名前を聞いているし、伝えているのだが、彼のことは全くもって思い出せない。一切接触が無い人のようだった。しかし、友達なんだからChai行こう!としつこい。結局その人はそばにいたtaxiのドライバーにコーラを買いに行かせ、おごってくれた。怪しいこの人からコーラをもらうのはとても怖かった。CPでもし私が倒れたらただ事じゃなく他の人たちが助けに来てくれるだろうなぁ、と心配しながら飲んだが、結局何も入っていなかったようで安心した。明日の予定を聞いてきて、「興味があれば美味しいケバブのレストランがあるから行かない?その後Lotus Templeに案内してあげるよ」と。新手のナンパ以外の何ものではなかったが、気持ち悪かった。彼はいったい何者なのだろうか・・・自分の職業を明確に話さないから・・・(あの辺の、まぁ、アイスとか売ってるよ・・・。 ※私はPahar Gandhiでアイス買ってません)



この人が気持ち悪くてもう会いたくなかったので、CPの中心にある、持ち物チェックなどが必要な公園に入った。Youthによるパフォーマンスイベントの直前期間だったようだ。

公園の芝生はきれいだった。歩き疲れたこともあって、芝生に座っていた。大学生が多いように見える。たぶんメトロでDelhi Uni.と直結しているから遊びに来るのだろう。30分くらい、ノートにメモをとったり「ここではキャッチも変なナンパもないな~」とか思いながらボーとしていたら、イケメンに話しかけられた。(!)

彼はImran,と言い、友人はSammerという。二人とも大学生で、22歳。少し話しをして、Chai行こう!ってことになる。Sammerは帰ってしまった。が、他の友人が現れた。さっき遠くの方に「あーいう人はもてるんだろうな~インド人ぽく無いな~モデルみたいでイケメンだな~」とか思ってた人だった。彼はLuckyと名乗った(本名はWangnoo)。

Imranはシンガポール大学で2年間ビジネスを専攻し、今年帰国したばかりだという。将来はNGOでまず働き、そのあとビジネスをやりたいらしい。Wangnooは10年間イギリスで生活していて、彼も最近帰国したばかりという。そのため、インドの水を飲むとお腹を壊すから飲めない、とImranがよく行くChai屋さんで話していた。二人は幼馴染だと言った。この後何をするのか、家族にお土産を買うのか、趣味(二人はクリケット)は何か、など話して、お茶を買うことを伝えたらWangnooがいつも家族に買っているという有名なお店に連れて行ってくれた(日本人がよく利用するのでお店の人は日本語が流暢に話せる)。質的にも価格的にも高いお店なので、1種類(Masala tea)を200g 675Rsのみ購入して終わった。本当はもっともっと安いMasala teaを大量に購入する予定だったが、予定外の出費に焦った。

実は、待ち合わせの時間は17:50だったが、CPからオートで出発したのは17:40だった。15分で戻れる!とのことだったが渋滞してしまい、結局18:20、CPを一周するほど待たせてしまい、心配をかけてしまった。

その後、彼らと夜少し飲みに行こうと約束し、別れた。お金が足りなくなったことと、Ehsonに電話するためにHISに向かった。そこで電話をお借りして、またHISと同じブロックにある換金所は20時まで営業し、かつ1万円=5300Rsだということでそこへ向かって換金。

Ehsonが友人(Irsh)と現れ、どこに行くとも決まらず歩き出し、結局Pahar Gandhiのレストランで食べた。「明日の夜かランチにうちに来ないか?」と誘われたが、相方が断固拒否していたので断念。



夜、Imranと飲みに出かけた。来ないと思っていた(Lucky)ようだったので、Imranはとても喜んでいた。話した内容はあまり覚えていないが、とても良い人だった。イケメンだし。出身地はDharamsalaということだった。Skypeやfacebookでも連絡を取ろう、と約束し、別れる。

インド旅行記 11

【26th】


Amurutをナイフで切り、食べてみる。甘みは僅かに感じる程度で、中心の小さな種はとても硬い。宿の人たちとシェアしながら、どんな果物なのか聞いてみると、とてもポピュラーで良く食べられている、カルシウムとビタミンを豊富に含み、インド特有の果物だということであった。青っぽい風味が鼻に抜ける。

@Kalsa

・Samosa 5Rs×2つ

・Chai 7Rs

チェックアウトし、荷物を預け、セントポール大聖堂へ向かう。公園に沿って歩き、30~40分ほど歩き、イギリス統治時代を大いに感じさせる大きな大聖堂が見えてきた。中に入って見学してみる。

[Metropolitan of India]というプレートがあった。1835年の設立以来、インド人の名前がそこに表記されるのは1950年になって以降だった。

昨日に見たジャイナ教寺院は確かに豪華ではあったが、やはりキリスト教の方が人も金も物も権威も、桁が違うのではないかと感じる。

Ecsplanad Streetで空港行きの市バスをターミナルがあるかどうかを確認し、お菓子屋が併設されている南インド料理を出す店に入った。

@Indra Mahal

・Cheese Masala Dosa 40Rs

・赤い甘い(砂糖味)のゼラチンの塊のお菓子 5Rs

・マメサモサ?(豆の入ったケチャップのような味のするサモサ) 5Rs



Mega StoreでアルミのChaiカップ(38Rs)を購入し、宿に戻る。

荷物を持って、バスに乗り込み、約1時間で空港周辺に到着する。隣に座ったおじさんにまたまた電話番号を聞かれ、降りていった。空港まで、僅か7Rsだった。安いなぁ。



<コルカタは“インドらしさ”は感じられず、一方イギリス統治時代の建物が数多く残っていることから街全体が洗練されているように見える。しかしその一方でバングラデシュから流れてきた難民たちが多いということもあってなのか、浮浪者が極めて目立つ。また、彼らは低いカーストの人たち(職業からの判断)に抱いてきた雰囲気ともまた違って、身体や衣類を洗濯できていない様子だった。町中には公共の水場や、井戸が多く存在する。そこを使用しているのはそのエリアの決まった人たちで、彼ら浮浪者は誰一人として使用する姿を見かけなかった。後に調べてみると、やはり同じカースト同士の使用が原則のようだった。自分たちより低いカーストの人が同じ水源を使用することは無いのだそうだ。男性の浮浪者のみならず、女性子供も多く見られた。最も酷な扱いを受けている、その現状から如何様にも抜け出すことが出来ないような、そんな雰囲気を持っていた。彼らに対して、今もこれからも、姿が見えてこず、もどかしさや何を感じることもなく、もはや混乱以外の何も感じられなかった>



空港近くで降り、これから空港に行くという人に出会った。IBMでソフトウェア開発をしているという方だった。海外経験もあるということで、シンガポールは何度か訪れていると話していた。彼も国内線に行き、人を待つというので、とても助かった。入り口で別れを告げてチェックインした。



陸路約30時間かかった道のりも、たった3時間でDelhiに戻ってきた。(機内食)市内までオート100~130Rsでいけるはずが、250~300Rsとオートの人たちが強い。現地の人たちもかなり困っていた様子で、同じ方面に行く男性とシェアすることになった。彼はKashmir出身のEhsonさん、推定30代前半でSE。Delhiを経由し数日後にドイツへ行くのだという。ユニークで気さくな方だった。仲良くなったので、翌日の夜に夕食を一緒に食べようということになった。連絡先を交換して別れた。

Pahar gandhiに戻ってきたのは夜20時頃。とりあえず荷物をネットカフェに預け、5~6箇所見て回った。朝晩冷え込むようになってきたので(15℃前後)、ホットシャワーとそこそこの清潔さを軸に見て回った。Star Paradise/Palaceの客引きが、声をかけてきた。ダブルでホットシャワーつき、400Rsだというので見に行くと、400Rsの部屋(Paradice)は満室とフロントに言われる。もう一種類の方があるからと行くと、500Rsの部屋。それならいらないと言うと、475になった。が、「彼は400と言った。無いなら他に行く」と言って帰ろうとしたら、400で3泊OKになった。宿で値切り出来るとは思っても見なかったが、予期せぬhappy。とまったのは107号室で、小奇麗、ドレッサーとクローゼットがある。ホットシャワーも使用可能。

ところが、荷物を持ってきてみると、小~中くらいのゴキブリたちがたくさん出てきた…

「ぎゃーーーーーーー!!!!!!!ごきぶりーーーーーーーーーー!!!!!」

フロントに「何とかして!!!!!!何か無いの?!!!!」と訊くと、「いいのがあるよ!」と言って殺虫液をまいてくれた。「10分もすれば大丈夫だよ~!」



確かにその晩はもうでてこなかった。明日はまた明日で頼むとしよう。

そして、メガネをコルカタのタイムスターに忘れてきたことに気がつく。

そこそこキレイな、べたべたではない毛布があったのは助かった。メガネは、明日電話してみようと思い、その日は就寝した。。

インド旅行記 10

【25th】


朝はパイナップルオートミール(=Porridgeだと知るのは頼んでからだった)とトースト(2pcs 7Rs)を食べ、コルカタの散策を開始。目的地はジャイナ教寺院とドッキネッショル寺院。

ジャイナ教の寺院Parasnath(パレシュナ)は、その不殺生と禁欲的な教えからは想像できない程の煌びやかさを持っていた。大理石、色彩の鮮やかさ(見た限りでは他寺院含め、ピンクやオレンジ、紫などの色が多い様に思う)、内外はミラーピースやステンドグラスで装飾、内側の模様(絵)には金が使われていた。建物は大きくないが、敷地は広く、水のある美しい公園ではあった。内部に、1867年に設立されて以来燃え続け、ケースに全くススの付いていない火があった。幻想的だった。サンスクリット語の文献も多く貯蔵されていた。読めないが、初めてサンスクリット語の文献をガラス越しだが書棚に並んでいたのを見て、興奮した。ここは昼の12時に閉門し、お祈りの時間になるということで外に出た。イメージでは、質素な建物だと思っていたがあまりにも豪華で驚きと唖然とが入り混じった変な気持ちになった。周囲に他2つジャイナ教の寺院があったが、見る気が無くなってしまったので相方と共にその場を後にしてドッキネッショルへ向かった。

メトロでDam Damへ向かい、バスに乗って行った。バスにどうやって乗ればいいのかよく分からなかったが、その場にいた学生たちに確認しながら何とか乗ることが出来た。この時、私は頭痛が酷かった。コルカタでもクラクションとrough roadのために頭痛。20分くらいの間、横にならせてもらったが、道はがたがたして車体は跳ねるしクラクションはけたたましく、寺院に着くまで落ち着けなかった。

ドッキネッショルに着くと、まだ参拝可能な15時ではなかったので外から眺めていた。寺院横にある池には魚が泳いでいる。夕方のドッキネッショルを池を挟んで観るのはとても美しく、この時間に見ることができてよかったと思った。写真を見返しても、やはりこの時間のこの場所からのドッキネッショルが美しいと感じる。

靴を脱ぎ、中に入る。数多くの参拝者が手に供物(赤:ハイビスカス?、黄:マリーゴールド?の花、砂糖と小麦粉で作ったであろう菓子:日本だと落雁を備えるような感覚かもしれない)を持って、何十メートルにもなる列を作って参拝を待っていた。それを横の階段に座って眺めていた。

すると、青年が日本語で「日本人ですか?」と声をかけてきた。一瞬怪しく思ったが、話を聞いてみるとタゴール国際大学で日本語を現在勉強中だという学生だった。日本語も英語もたどたどしく、怪しいのではなく本当に学びたい学生だと分かった。彼はAsish Ghoshさんと言い、日本語の勉強資料を見せてくれて、日本語を一生懸命話しながら寺院周辺を案内してくれた。案内の元、猿がいるという場所に連れて行ってくれた。構内のマーケットなのだが、たくさんの親子猿がいて、観光客からフルーツやピーナッツ、パンなど様々なものをもらっていた。近くへ行っても全く逃げる様子はなかった。

その後、連絡先を交換し、日本語の勉強のためにメールを送ってくださいね、約束してその場を後にした。その後、彼から日本語をローマ字打ちでメールが来た。勉強家で、将来は日本とインドの交流協会に勤めたいのだという。がんばれ青年!

Dam Dam駅周辺に着くと、そこでは野菜市のみならず屋根のある一角で魚市が行われていた。魚料理が有名だということを聞いていたこともあり、興味があったので中を見学することにした。たくさんの鮮魚と、声を張るおっちゃんたちがひしめき合っていた。腰の高さ程の一畳半くらいの台の上に乗って、魚を売っていた。三日月型の置き型ナイフ?鎌?で客の要望に合わせて魚を見事にさばいていた。

私が写真を撮り始めると、おっちゃんたちは、「俺もこのでかいやつと撮ってくれ!」といわんばかりに魚を持ち上げたり見えやすいようにしてくれたり、とても気さくでチャーミングな人たちだった。

野菜やフルーツの中で食べたことが無いものを見つけた。ライムグリーン色の、丸い、見た目薄味の梨ではなかろうか、というを果物。名前はAmurut(Piyara in Bengal)という。お姉さんが私の写真を、というので撮って、実も気になったので翌朝食べるために、一つ買ってみた。5Rs

さて、サダルストリートに戻り、マーケットを見つつ夕食場所を選ぶ。

@Blue Ceil Restaurant

・Aloo Jeera 50Rs

・Garlic Butter Naan 30Rs

・Watter 15Rs



茶目っ気たっぷり、ジョーク満載のおっちゃん。因みにこの日は欧州リーグの最中、チェルシーvsマドリッドの試合をモニターで流していた。



この後、マーケットで散策。特に何があるわけではなかった。洋服、靴、装飾品、果物、食べ物屋台など。

帰り際、20時くらいだろうか、サダルストリートの一角で青空教室が開かれていた。インドの人だろうと思うが、男女各一人が先生となって、4~10歳くらいの少年少女10~15人ほどに読み書きを教えていた。声をかければよかったと後になって後悔。

のぶひこの店でパパイヤラッシー(25Rs)を飲み、紙がなくなってきたのでトイレットペーパー(10Rs)を購入して宿に戻り、就寝することにした。

インド旅行記 9

【24th】


翌朝、6時にチェックインし、マザーハウスに向かった。向かう通りには、肉屋がいくつかあった。大きさ的に、牛かヤギのようだった。肉屋は見た限りの地域では、固まったエリアに2~4件あるように思える。鶏の場合も同様に、同じ通りに2~4件ある。

マザーハウス近くに行って、入り口側なら無かったため立ち往生していると、何日か既にボランティアに来ている日本人女性に遭遇した。一緒に連れて行ってもらい、ボランティア用に用意していただいているパン、バナナ、Chaiを朝食としていただき、シスターを待った。各国からボランティアを希望する人たちが集まっていた。7:00になると、お祈りと歌があり、タウン7:30頃にシスターたちが現れた。シスターにボランティア日数と希望場所、名前を告げTemporary Passをもらって、同じ施設に行く人たちとバス、オートのシェアで乗り継いで8時に付いた。

私はDaya Danという障がい児の施設。1階と2階に区別され、1階は長期ボランティアがイベントに向けた出し物を教える。このイベントとは、マザーハウスの他施設にクリスマスなどに出張するためのものだという。特に外部に向けたものではないらしい。比較的障害の軽度な男の子が多い。2階では、掃除、遊び、食事手伝い、洗濯、着替え手伝いなどを行う。2階には、要介護の重度の子供たち~中、軽度の女の子が中心で、男の子は重度の子が数人いた。

8時過ぎから、屋上でシーツ類や衣類など洗濯物を干す。しばらくして、マザーハウスで話に聞いていた日本人の方がいらしたので、りつ子さん(1960年生まれ)だと確信した。

2階の職員や定期的なボランティアは決して多くなく、インド人の職員(マーシーとりつ子さんは呼んでいた)は4~6人、主任が1人、シスターが1~2人、そしてボランティアのりつ子さん。現在はシスターや職員の娘たちが4~5人いて、1ヶ月程手伝いをするらしい。10~13歳位に見えた。

りつ子さんが、手伝いが必要だから一人来てほしい、ということで私は付いていった。重度の子達の痰を取り除くために、左右の肩甲骨あたりを10分ずつパタパタたたいてほしい、とのことだった。医学的根拠は無いけれども、その方が痰が取れると感じるため続けている、とのことだった。ずっとたたき続けてあげるのはなかなか大変だった。まずはPinkuという曰く16歳女の子。重度の子達は、みな骨の変形が激しく、器官も臓器機能も弱い。マラリアに罹ってしまった子、抗生物質が切れると高熱になる子など。様々併発しているようである。

パタパタを終えて器官の透り良くする薬の入った蒸気を吸入させる。嫌がる。3人ほど、吸入を交換で行った。その間、10時頃だろうか、抱えていける子供たちはみんなopen spaceに連れて行かれ、ミサに出ていた。この日は日曜日だったので、みんな日曜の日の洋服を着ているとのことだった。クリスチャンのボランティアは皆一緒にミサに参加しているので、残っていたのは私と相方とスィクの女性とりつ子さん、それに看護学生の女性ともう一人日本人女性。

11時近くなったので、お茶とクッキーを休憩室でいただいた。そのビスケットが適度に甘くて本当に美味しかった。りつ子さんは、学生時代ウィーンの音楽学校でピアノを専攻していたという。行動経済成長以前の留学であったため、日本は途上国としての扱いの学費だったという。また、その際のアルバイトは大使館の子供たちにピアノを教えることだったという。そして、長期で確か26年ほど海外各地の旅をしていたという。

彼女はなぜここのボランティアを始めることになったのか。インドへ来た際、西洋人の友人に誘われてボランティアを始める。それが19年前、カーリガート(死を待つ人の家)でのボランティアだった。マザーのことはその時は知らず、後々になって知ったという。マザーは、自分自身にとても厳しい方だった、と話す。ここ、Daya danは、12年前に設立され、その際職員同然に携わっていたという。それ以来、ずっとDaya danでボランティアをしているとのことだった。もっと詳しく話を聞いてみたいと思った。

休憩を終えると、子供たちが帰ってきていた。それぞれの子供のデータがファイルになっている。どのように対応してあげるべきかが書かれていた。大概は関節の曲げ伸ばしやその他ストレッチがメイン。一緒に遊んであげるとみんな大喜び。なかなか笑わない子のツボを見つけて笑わせられるのが楽しかった。

その後、食事のために彼らを椅子に乗せて食堂に移動させる。その後、私と相方とりつ子さんで子供たちがいたストレッチルームのマットレスとクッションなどを掃除する。除菌液の入ってる水で一つ一つ丁寧に拭いていく。鏡もぴかぴかに。床もぴかぴかに。いつもは一人でやっているから助かる。といってもらえたことは嬉しかった。その後、食堂に行って食器洗いをした。次から次へとくるので終わらない。他のボランティアたちは12時になったので終わって昼ごはんを食べに行くがどうするか、といわれた。仕事は未だ残っているのでは?と思ったが、実はボランティアは午前中~12時までらしい。ボランティアは12:30までにこの施設から完全に出て、15時から午後のボランティアが2時間ほど行われるとのことだった。私と相方は他のボランティアとは昼食に行かず、仕事を完全に終わらせて、また午後もここでボランティアしようと決めた。休憩室の掃除を最後にりつ子さんと行い、外に出た。RotiにAloo curryが乗ったものを1枚1Rsで食べられる場所に連れていってあげる、とのことで付いていく。3枚ほど食べ、りつ子さんがいつも15時まで時間を潰しているという公園に行った(浮浪者対策で16時から開錠されるという謎の遊具施設が公園内ある場所)。大きな門のチェーンをくぐって中に入り、ベンチに新聞紙を敷いてお話を伺った。広場では祭りのやぐらを壊している最中で、また一方ではクリケットをする青年たちがいた。

りつ子さんは、最近タッキーにはまっているということ。たまに自分がどんなことをやっているかなどを手紙を書き、CDを聞き、日々の癒しにしているという。彼女は毎朝6時に来て、掃除などを隅々までするという。それを20年も続けている。

彼女が話してくれた、Pinkuの話。それは、先月まで5ヶ月間入院していたということだった。危篤状態が続き、毎日毎日看病に通っていたという。なんとか持ち返した今、彼女にとってPinkuは何よりの支えのようだった。

また、ある子は夜高熱を出し、シスターに病院に連れて行くべきではないかと打診をすると、「あなたが連れて行ったらいいじゃない」といわれてしまったという。病院にひとまず連れて行き、その日は帰宅した。翌日、朝施設に行くとシスターたちは皆1階に降りていて、何か変だなと感じたという。すると、施設の館長が、病院で昨晩無くなったということを告げられた。どの子もわが子同然に大切に毎日を過ごしていたが特別その子は手をかけていたこともあって、初めて、埋葬に立ち会ったという。共同墓地に埋められる子供たちは、どこに誰が埋まっているのか一つの目印も無く、驚きともっと早くにこれを知っていたらと後悔したという。日本人と韓国人で寄付を集め、十字架を立てることにしたという。他の子供たちは、今もどこにいるか分からなくて申し訳ないと言っていた。

彼女にとって、Daya danはどんな場所なのだろうか。すばらしい精神を持っているからここにずっと携わろうと決心したのだろうか。何かの使命感に燃えているからずっと居続けるのだろうか。

私が彼女から感じたのは、決して使命感に燃える何かではなく、ただ、施設にいる子供たちが好きだから、わが子のようだから、私がいなければ彼女たちがどうなったことか分からないから(危機感)、出来る限り子供たちのために出来ることをしたい、そういう思いを感じた。

施設の館長が替わる度に彼女の立場が良くなったり悪くなったりするという。設立に携わっているにも関らず、決してそれに見合った目に見えた表彰などの評価やpayがあるわけじゃない。適切に評価される環境は聞く限りほとんど無く、決してきれいごとで続けてきている人ではない。彼女はその状況に対して以下のように話す。

「私はシスター達が功績を評価されているように評価されることはない。職員や館長によって立場が悪くなったりする。でも、マザーは常に自分自身に厳しかったし、今私のやっていることはきっとマザーが言うような自分への試練なんだと思って日々を過ごしている。評価されたりちやほやされたりしていたら、マザーの教えからは離れていってしまうかもしれない。だから、わたしはこれでいいんだ」と、マザーの教えのように自分は日々の行いをするのだと、しているのだと、いうことだった。また、以下のようにも言っていた。「自分自身のことができないのに誰かの世話なんて出来ない。きれいな場所できれいな服を着てボランティアなんて出来ない。マザーはそう言っていた」と。それは、特に日本の旅行会社がボランティアを商業に組み込んでいることから、そこに参加している人たちが言われたことをやって汚れる仕事はやらないで、時間になったらサヨウナラ、という風に感じているからの様だった。

そろそろ戻る時間という時。タッキーの中古CDと漬物を日本から送ることを約束して仕事に戻った。午後はまず、軽食の時間になるので子供たちを椅子に乗せて食堂に連れて行く。寝ていた子達でおねしょしている場合のみシーツと洋服を交換してあげる。布オムツの取り替え方が分からなかったため、シーツ交換を行った。

その後、食事の手伝いをする。みんなよく食べる!体の大きい子や男の子はやはりよく食べるので、スプーンを運ぶスピードも速くなる。一生懸命食べている子供たちを見ていると、生きているその力を感じずに入られない。

食事が終わった子から薬とビタミン剤を飲ませ、ベッドに寝かしてあげる。そして掃除し、ひと段落。軽度~中度の子供たちはおやつを食べる。Rossogolaとケーキ(りつ子さんはこれにも憤っていた。反応が明確な子達ばかりに手をかけるのはおかしいと)を食べさせてあげた。そして一緒に遊んであげた。こちょこちょは、万国共通で子供たちが喜ぶようだ。そうこうしているうちに17時になり、ボランティア終了の時間になった。



<マーシー達は、顔を拭いてあげる時、布でごしごしする。移動させる時、まれに右手足をつかんでぶらりとした状態で移動させる。シスターの子供がとある中度障がいの女の子を思いっきり叩く。障がい者に対する人権はどう考えているのだろうか。決して全ての人に献身的な好意を徹底して行え、とは言わないし、そのような心理的なものは強制することなどできない。しかし、彼彼女たちは人なんだということ、言っていることは感じ、相手の気持ちだって敏感に察するものだ。反抗しない、何も言わない、だからどんな扱いをしても良いと思っているのではないかと、ふと思ってしまう悲しい場面に幾度とであった>



サダルストリートにりつ子さんと共にメトロで戻り、私たちは夕食に向かった。

@Khalsa

・Irani Chicken 55Rs

・Parasa(BigBread≒ナンピザ) 20Rs

この店の料理は美味しい。塩分が強すぎることも無かった。



近くにあるジューススタンドで、バナナラッシー(15Rs)を飲んだ。19歳の青年、自称のぶひろ(本名は忘れた)がいつもいる。とても面白くて変なやつ。のぶひろがいたからこそ他のところではなくここでラッシーを飲みたいと思えたのかもしれない。味もココのが一番好きだ。

インド旅行記 8

【23rd】


翌朝、朝食はカロリーメイトと卵サンド(15Rsフレンチトーストのような見かけ)とマンゴージュース。

咳き込んでいたら上の方から少年が、ガムをくれた。しばらくしてお菓子売りが来て、私はチョコを買って食べた。すると少年が今度はチョコレートを一欠け私にくれた。

すぐ横のコンパートメントには何家族かで来ていグループがいた。娘さんたち4人くらい(15~6歳、22歳)と挨拶を交わし、写真を撮った。おじさんたちと政治や経済、インドの歴史や観光の話、日本の政治や経済の話などを色々した。その息子たちが、チョコをくれた少年と、その友達だった。コマで遊んでいたの見せてくれた。二人ともしっかり英語を勉強していたのでたくさんのインドの歴史的な人物、Kolkataのお勧めの場所や食べ物などを説明してくれた。かわいい!!!!名前はSoham Basu君(チョコの少年、年上)とTamoghno Bhatiacharya君(早口)。

この列車のチケットがなかなか取れなかったことをおじさんたちに話したら、10月24日はベンガル暦の新年ということを言われた(後で調べたら4月14日だった)。ただ、その前後にも祭りがだいぶ重なっていることもあって帰省ラッシュのようなものと重なっていたらしい。因みにベンガル語で、難しい(ムスキール)を=Shomossha(ソモッシャ)というと教えてもらった。「何かあったらいつでも連絡頂戴!」とおじさんたちのメールアドレスと電話番号を教えてもらい、合計6時間程度の遅れで到着した。素敵な人たちとの出会いがたくさんあり、時間があっという間に過ぎていった。インドで列車が遅れないなんて!と思っていたので、今回遅れが生じてわくわくした気持ちになった。



Kolkataについて、サダルストリート(Sudder Street)へプリペイドタクシーを使用していく。65Rsなのだが・・・あまりSudder Streetを知っている人がいなかった。なぜだ?!多くのバックパッカーが利用しているというような噂を聞いたのだが・・・彼らはバスか鉄道で移動しているのかもしれない。

運転手さんは迷いながら、たくさんの人に道を聞きながら何とか辿りついた。おっちゃん、ご苦労様!英語が話せないから、私の知っている限りのヒンディー(と言っても挨拶、自己紹介、数字、難しい、ちょっとまって、とかだけなのだが・・・笑)を披露すると喜んでくれた。そしてヒンディーで話しかけられるようになった。何とかジェスチャーや状況を見ながら何とか理解したと思っているが、やっぱりヒンディーを話せるようになりたいと思った。

メーター結局、新表記の140Rs(実際に140Rsではなく1.5倍~2倍くらいだったかと・・・詳しくは地球の歩き方に表記されていた)を指していた。だいぶ迷子になったようである。プリペイドにしていて良かった。



結局、30分くらいのはずが1時間かかったので、18時近くなっていた。

移動で疲れていたこともあり、一泊ダブル500Rsの場所に宿泊。コストパフォーマンスは決して高くなかったので、一泊のみにした。

夕食はBengal料理の食べられるお店に入った。

@Radhumi Restaurant 

・Aier Fish(痛いに近い激辛)65Rs

・Aloo Bharta(Aloo:ジャガイモのマッシュ、香草、玉葱、青唐辛子)15Rs

・Rice 15Rs

相方は2匹海老の入ったクリーミーな料理を食べた。こちらは日本人が大いに好みそうなほっとする味付けだった。

気さくで陽気な店員さんがいる。めちゃくちゃ辛かった美味しかった!

そしてこの言葉を店員さんに教えてもらって食後のミントをかじってお店を後にした。

Ami Tumake Barobasi(Ami:私は、Tuma:あなた、ke:を、Barobasi:愛しています)



夕食後、いくつか宿を下見に行き、Hotel Time Starというゲストハウスに決めた。ダブルで375Rsだという。部屋が広くそれなりにきれいで、お店の人も親切でユニークだ。(朝晩は他の部屋のテレビの音などで騒々しい。それ以外はとても良かった)

翌朝6時、マザーハウスに行く前に寄ってチェックインすることを伝え、宿に戻った。

インド旅行記 7

【22nd】


朝食を済ませ、朝8時から授業が開始された。まだ頭痛と咳は残っていたが、子供たちには関係ないのと、子供たちからパワーをもらってなんとか乗り切った。

担当した生徒は、英語:Vijay 算数:Raju。

Vijayは賢く、英語の問題をどのように出そうか迷った。また、30分くらいすると飽きてしまい、授業に対する関心を継続させることの難しさを感じた。また、1時間の英語の授業が終わり、算数の時間。Rajuは4桁の計算まで出来る、ということだったので、繰り上がりの計算をとかせようと思った。ところが、0の意味や繰り上がりの意味、3桁と4桁の意味の違いが理解できなかったので、「ムスキール…(難しい)」を連発。「Hiro~ムスキール…」と、スタッフのHiroさんに助けを求めることしばしば。そこで、絆創膏の枚数を減らしていって、0ってどういうことなのかを説明し(1+0=10だと思っていた)、またどの桁がどの桁に対応しているのか下線を引き、同じような問題をたくさんだし、また出来たら毎回毎回褒めた。すると、Rajuは問題を解くのが楽しくなったらしく、もっともっと!と問題を解きたがった。宿題もたくさんほしい!と。解けると楽しいし、褒められると嬉しい。だから問題を解くことに対して関心が高くなるのだろう。途中「10時になったらランチタイムだから帰る!」と言っていたが、結局たくさんの問題をちゃんと授業終了の10:30まで解いた。次の授業もしっかり出た(こちらは英語でお手紙で、Rajuは乗り気にならなかった)。子供たちにとって、勉強することが楽しいと思えるような環境と対応が必要なのだと思う。だから入口は「楽しい!」から始まる必要があるのだろう。学校は楽しいから来たい、そう思えることが子供たちにとっていまは大切なのだ。でなければ、数ヶ月おきにしかこなかったり、数回きりになってしまったりする。Rajuも1ヶ月ぶりにきたらしい。金銭的に余裕が出来たり、学力的に追いつけるようになれば、近くにある公立学校に通うようになる子供もいるという。ただ、舞子さんのお話では、公立学校も最も安くて月100円かかるといい、月収5000~6000円の家庭が多いこの地域では払い続けるにはあまり月収が十分ではないという。当然だが、一筋縄ではいかない。ただ、子供たちにとって最低限英語やヒンディー語をならい、計算ができるようになれば、将来簡単な交渉や契約が出来るようになる。物の売り買い、リキシャーでの交渉、書類の授受が可能になれば、お金を稼ぐことが出来る。今教室に来ている子供たちは、もしかすると長く学校へ通うことは出来ないかもしれない。だが、子供たちが結婚して、子供が生まれれば、学ぶことの重要性を少しばかり教えることができるようになるかもしれない。学ぶことが大切だと感じられれば、ほんの僅か、次の世代の状況が明るくなるかもしれない。将来に希望を持ち、未来の選択肢が広がるかもしれない。見えない将来に、未来に希望を持つことは、今日この瞬間を生きる人にとってはとても容易なことではない。今日を生き、明日の朝が明けることを願う。だから、簡単には目に見えない教育を進め、継続させていくことは困難であり、しかし同時に、根気強く継続を促していくことで次の世代の選択肢と可能性を広げることが出来る。

教室に来る子供たちがいつか、結婚して子供を生んで、そしてその子供たちに、より生きた教育を受けられるように手を貸して上げられるような大人になってほしいと、強く強く願う。



さて、昼食を待つ間、schoolの教室横に間借りしている家族がいる。その子供たちの部屋に遊びに行って、一緒に白黒アニメテレビ(忍者ハットリ君!)を見たり、女の子にヘナを施してあげたり(初めてで要領が全く分からなかったが、お花を描いてあげた)、ハツカネズミを観察してみたり(たくさんいるので気になった)。昼食を食べに上に戻り、インドラーメン(100Rs)を食べた。

宿泊代、飲み物代、昼食代、オート代(一泊二日二食付350Rs/1人+30Rs+100Rs+75Rs)を支払い、スタッフの方々と話しをしたり、お掃除の女性の子供、ナジュラーナ(2~3歳?)と遊んだり写真を撮ったり。ナジュは本当にかわいい!絶対美人さんになる。

出発直前、花ちゃん(4年生、休学して世界一周中)が現る。とてもキレイな、かわいい女性。彼女の話も聞いてみたかったが、時間が無かったため連絡先を交換して、みんなで写真を撮って3時に、school前に呼んでもらったオートに乗り込んでBanaras駅に向かった。駅に早く着いたので、バザールを散策。思いのほか泥だらけの洋服が増えてしまったため、洗濯できず洋服が足りなくなり、Kurti(200Rs)を購入。そしてChaiを飲み、ブラッジャムーン(6Rs)という黒い丸い揚げパンをシロップに漬けたようなお菓子と、チョコレートバルピン(6Rs)というベースはミルクっぽい少しぽろぽろしたお菓子を買って食べみた。他にも気になったのがあったが、味見して好みではなかったのでその二つに。ただ、どちらも結局食べ切れなかった。インドのお菓子は異常なほどに激甘。相方も甘党だが、二人とも僅かにかじっただけで終わってしまった。

駅で電車待っていた。電車が着たので車両を確認しようと後ろから前まで確認したが…どうも乗り込むべき電車ではない。なぜなら全てSLクラスだからだ。おかしい。

そばにいたポーターに、これはKolkata行きか?と訊くと、「違う。Nextだ」と言われた。

そうか、では次を待つことにしよう、と思い、その辺の空いていた場所に新聞紙を敷いてインド人大家族の横に座って待っていた。もう片方の隣には、物乞いのおばあさんと見られる女性がいた。お金がほしいというジェスチャーをされたが、あげられない。先ほど買ったバルピン、食べ切れなかったのを持っていた。たぶん、私の座る新聞紙、後ろ側に置いたら彼女はそれを手に取って食べるだろう、と思った。あげるあげないを考えたわけではなく、ふとそう思い、置いた。予想の通り、横に目をやると、彼女はそれを食べていた。それに対して私はなんとも表現しがたいものが胸の中に起こった。「あ、やっぱり食べた」「私、何をしているのだろう」「美味しいかな」「手渡しすればよかったかな」「分かっていて後ろに置く行為は暗黙の了解のうちに差し出していることになるのかな」そしておばあさんは横になって寝始めた。

隣の大家族の子供二人、お姉ちゃんと弟。SabtaminagちゃんとRudbakshanag君。「Hi! What's your name?」とSabtaminagちゃんに話しかけられて、私のノートに二人してお絵かきを始めた。お家を描いたりハートマークを描いたり、弟は思いのまま何かを描いていた。枚数はたくさんあったので気にしていなかったが、お母さんがインクが無くなったり紙がなくなったりするのを気にしていた。始め何を気にしているのか分からなかったが、親戚かなにかのお姉ちゃんが英語で説明してくれた。その後は、子供たちがお母さんに注意されたので、弟は持っていたハヌマーンの人形を振り回して、「ハヌマーン!」と叫びながらきゃっきゃしていた。よって彼の愛称はハヌマーン少年(と、ハヌマーン少年とその家族)になった。だからハヌマーンは、思い出深い。笑

ところで、いつになったら電車が来るのだろう?と思うと、既に時間は2時間だか3時間だか経過。18時発が出発したのは22時だった。車内で寝るための支度をして、おなかがすいたのでクッキーとカロリーメイトと水を飲み、就寝。

インド旅行記 6

【21st】


早朝5:30、外から祈りの声が聞こえてきた。コーランを読み上げている音だった。メインの通りを南に10~15分くらい歩いたところはムスリム居住区である。

朝、通り沿いにある観光客はめったに入らないだろう大衆食堂で食事をすることにした。

ジャガイモとグリーンピースのカレー、ご飯、甘~いオレンジ色の揚げたお菓子のPlate(45Rs)。隣に座った3姉妹とその家族(計10人程)と少しばかりお話しながら。

宿に戻り、チェックアウトし、荷物を預けて、南の方にあるガートへ向かう。スロープを登ったところに電子火葬場、ガンガー岸が薪の火葬場。電子火葬場あたりでヤギを触って、頭を掻いてあげたら、いつまでも付いてくる~~~~!!!5分くらいその場所でくるくるくるくる一緒に回って逃げていた。かわいいけど。

火葬場を見るなら、ボートがいい。と近くのおじさんに勧められた。実際、近くで見学しているとものすごい灰を被ることになる。喉がやられてもおかしくない。だが、私はボートでの見学はするつもりは元々無かった。観光客は灰を被らないで汚れることのない場所から…そんな高みの見物をしたくなかった。死者を弔う、悼む、死者の親族と共にただその同じ空間を共にしたかった。

火葬場には、女性はいない。それには宗教的な理由がある。妊娠や月経は不浄の期間とされることから、それら外部から一見しては分からないため女性は一切火葬に立ち会えない。だから極端に近くへは行かず、他の女性が通るような場所から眺めていた。一体火葬が中盤から終盤に近く、一体は薪が積み上げられていた。一体は薪の上に花々などと一緒に横たわっていた。黒く跡形も見えないチリとなった数十分前は火葬が行われていたであろう場所もあった。10代の子供たちが灰取りでかき集め、ガンガーに流していた。

最も、火葬が進んでいたその横には、薪を新たにくべ、また黒いその姿を棒で突付き、燃え易いようにする少年がいた。くべた薪がきっと頭であろう場所に当たって、きっと火が通った脳が、頭だと思われる場所が割れてぼろぼろとでてきた。脚だと思うそれらは、膝から下が既に無く、他の場所の色ではなく、少し白く見えていた。骨だろう。

人は、こうなるんだ。

炭になって、灰になって、塵になって

少年がそれを集め、聖なるガンガーへ。

たくさんの金銀色の織物、たくさんの花飾り

それらが火葬場にはたくさんあった。

最後は、天国では、来世では、すばらしい日々を送れるように、という想いがこめられているのだろうか。



相方は、まだじっと見ている。これ以上私はここにいられなくなり、先に階段を上がった。感じたことを忘れないように、ノートをとっていた。すると、いつの間にか子供たちが集まってきた。「Candy?」と言うと、喜んでいた。何人も集まってきた。しばらくして会い方が戻ってきたので、子供たちが集まり過ぎないうちに宿の方面に歩いていった。



途中、Mega Mart(Banarasでは衣料品スーパーだった)に寄り、朝晩冷えるようになっていたのでショールを買った。



昼食はAPSARA Restaurant/Yes we are less dirty.という場所でPaneer Kofta(70Rs Paneer:チーズ)、Butter Roti(5Rs)を食べた。とても良いおじさんだった。宿に戻り荷物を持ってMother Baby Schoolへ向かう。舞子さんから予めオートでだいたい130~150Rsと言われていた。が、その金額ではなかなかつかまらない。相乗りだと安いのは知っていたが、150で行くという人がいたから、相乗り体験するいい機会だと思って乗った。一緒に乗っていた人の一人と話していると、電話番号を聞かれた。国際電話になるが、まぁ別にかけてこないだろうと思ったのと、この男性、英語がほとんど話せないからそんなに電話することもないだろうと思ったので、一応教えてあげた。大学では農業を専攻していたらしい。

さてさて、オートでMother Baby Schoolの目の前まで行くように約束したのでそこまで行ってくれた。そしたら200Rsだと言うので、「いや、目の前まで行って150RsでOKだって言ったよね~!だから150だよ~。あ、飴あげる!笑」と返した。約束したもんね。

@ Mother Baby School

<村にいる子供たちは、日本人を見ると「Maiko---------!!!!!!!!!!!」と言ってくる。それだけ、舞子さんは必要とされ、愛されているのだろうと感じた。舞子さんの印象が、そのまま日本人に対する印象になっているだろう。とても穏やかな、温かな、明るい色の空気を感じた>

まず、Guest Houseと運営や団体に関する説明を一通り受け、外へお散歩に。出るとすぐに子供たちがいた。何枚か彼らが撮影して、家の中においで!と言われた。中にいたお父さんとおじいさんにstopのジェスチャーをされたので、目線を上げると、点滴らしきものをした女性。後で聞くと、数日前に赤ちゃんが生まれたばかりなのだという。この地域はムスリムが多いらしく、その家の男性もムスリムだった。ただ、女性はブルカを被っている人は見かけなかった。その後、マーケットに行こうと思い、歩いていたら、「1picture」と、家から出てきた女性に言われる。もちろんOK!そしてその人の全身の写真、上半身の写真、ヤギとも一緒に撮ってほしいとのことだったので、撮ってあげた。どうやら写真がほしいらしい。写真が出来たら私にくれないか?というジェスチャーとヒンディーだと思う。だから私も日本語で、後で送ってあげるからSchoolの人に頼んで渡してもらうようにしておく!という説明とジェスチャー。とっても嬉しそうだった。

先へ進むと子供たちがわらわら。大撮影大会が始まってしまった。お家の中、屋上、子供たちに連れられてはしごを上ったり降りたり。一人の20代の女性が私におまじないをしてくれた。目がキレイになるおまじない。炭と油を混ぜて練ったものらしいが、それを目の下まぶたの内側に塗る。そしてビンディをつける場所にもチョンとつけてもらった。物凄い顔になった…笑

花の首飾りもかけてくれて、写真を撮ってくれた。子供たちはカメラで撮影したがっていた。写真を、子供たちの目線で撮っていた。子供たちは自分で写真を撮ることは撮ってもらう以上に機会が少ない。伸び伸びとした、自由な、自然な写真がたくさん撮れていた。たくさんの写真を撮り、しかし体力的に疲れてきたので帰ろうと思っていたが、子供たちのパワーは有り余っている!とすると、一人のお母さんが「もう終わりにしなさい!」と一喝!笑 笑っていると「あなたたちも早く行きなさい!この子達にまた囲まれるわよ!」というような感じで一喝!笑 お母さんありがとう。だが今度は別の場所で写真撮影会。笑 撮影会に終わりは無い! すると、20代のお兄ちゃんと少年たちが来て、「一緒にサッカーしよう!」とのことで広場へ行くことに。

ぬかるんでいたので、つるつる滑ったりしながらサッカーをした。自己紹介大会開始!そしてなぜか7歳くらいの少年のほっぺにちゅーすることになった。その場は大盛り上がり!子供たちはかわいいね。しばらくして、もう帰るね~というと、だめだー!と、お兄ちゃんが逃げる私の腕を捕まえて放さないわ抱えてぐるぐる回るわ手を握ってるわ…面倒だから相方に「heeeeey, she is my girl friend!笑」といってもらって手を離してもらったが、すると「Kiss her!」って、lieなのだから無理なのだ!彼らにどこだかへ一緒に行こう!と誘われたが、日が落ちてきたこと、泥だらけになったということで、宿に戻って休むことに。

屋上に、Akiさん(三鷹で劇団員、マレーシア経由でインド出入り、買い物好き)、ふくちゃん(一人旅中、旅先で出会った方と結婚)、あやちゃん(大学4年生休学中、2月頃までインドと周辺国を回る)がいたので、旅のお話、schoolのお話をしました。Akiさんは1週間ほど、ふくちゃんは3日ほど、あやちゃんは1ヶ月ほど。夕飯の時間になり、オクラ丼とパコラをいただいた。夕飯を終えた頃から、寒さと胃痛、頭痛、咳が起き出した。寒さは、単純に冷え込んだからであり、胃痛はもしかすると日本食を精神的に受け付けていなかったのかもしれないことで起こった可能性がある。海外で日本食は食べたくないと思っていたので…笑 頭痛はクラクションとrough roadが原因なのは間違いない。喉は排ガス。相方にパーカーを貸してもらい、レギンスを履いて、Akiさんに胃腸薬を頂き、ふくちゃんに龍角散トローチを大量にいただいた。蚊に刺されてODOMOSを全身に塗るのに起きたが、それ以外はおかげでぐっすり寝ることができた。夜、スタッフの方々とお話が出来なかったのは残念だった。

インド旅行記 5

【20th】


朝5:30「チケットを見せるんだ。もうここはBanarasだ。5分で出発するから早く外に出るんだ。」と乗客を連れたポーターが現る。なんと、予定通りに到着したため、とてつもなく早起きすることになった。寝ぼけながらあわてて外に出る。後々気がついたが、ワンピースを一着車内に落としてきたらしい。きっと今頃誰か女の子が来ているに違いない♪

さて、Banaras駅。まずPay Useトイレへ。女性側は混んでいる。歯を磨いたりしている。トイレは2つしかない。水道も2つ。取り合い奪い合い。時間がかかる。私はお腹が痛いんだ。だから横入りしないでくれ。こんにゃろー。と思うが、そこは中国で身に付けたトイレに入るための図々しさがある。それなりの順番で無事使用できた。時間は6時を過ぎていた。すると、舞子さんに三度遭遇!偶然に偶然が重なり、もはや強い縁を感じずに入られなかった。Gowdriya交差点まで、30Rsだということで、サイクルリキシャーの交渉をしてくれた。オートだと良く分からない場所に連れて行かれる可能性もあるから、とのこと。舞子さんと、ゲストハウスでまたお会いすることを約束し、ここでお別れした。無事たどり交差点まで着き、予めオススメしてもらっていたShiva Guest Houseに宿泊した。舞子さんの友人であるオーナーのShivaさんにchaiを頂き、部屋を見せていただき、ダブルで400→350Rsで宿泊させていただいた。清潔感もそこそこあり、ホットシャワーも使用可能だった。チェックイン後、まず洗濯し、干し、外にもロープを…と思ったら、屋上の方から「猿が来て取って行くから外はダメだよ!」と。ふと見ると、確かに猿が…。出窓を空けたまま、室内で洗濯物を干していたら、出窓のすぐ先で「キキー!」焦ってすぐに出窓を閉めた。猿にはくれぐれも注意が必要だ。

朝食を食べに、外へ。

どこか忘れたが、Cheese tomato toast(40Rs)とchai(7Rs)を食べ、ガンガーを眺めながら南へ歩く。階段を下りる際に祈ってから降りる者、ガンガーで沐浴する人々、選択する人々、水遊びする子供、仕事をする人、ガンガーの向こうに見える“不浄の地”の岸には何も無く、不思議な光景が広がっていた。

いろいろな物が詰まったヘドロというか粘土質の物質というか、階段に積もった?それらをホースの水(かなりの水量と水圧)でガンガーへ押し流している場所がいくつかあった。

しばらく歩くと…はまった。

相方も…はまった。

動くほど…脚が埋まる!!!!!

二人とも膝まで埋まった…



Heeeeeeeeeeeeeeeeeeeeelp!!!!!!!



近くに来てくれたインド人親子に救出してもらう。

ビーサンたちは、ガンガー(横)の泥の中に、思い出と共に埋まっているのだ。

脚を洗うためにガンガーへ。思いもかけない形でガンジス川に漬かることになったが、決して忘れられないものになった。

救出してくれた少年の名前はBabu、おじさんは「ガンジス川でバタフライ」の際、長澤まさみを船に乗せた人らしい。

裸足でBanarasの路地を、至る所にある牛糞やゴミを避けながら、靴屋さんまで連れて行ってもらった。

宿に戻り、着替え、改めてBanaras Hindu University(サイクル30Rs)内のVishwanath templeに行く。大学構内はとても広大で、構内バスが走っていた。在学生用だが、近くに止まっていたので乗って寺院まで5~6分走って着いた。参拝者が学外からたくさん来ていた。Shivaを祀った寺院だという。数家族がそれぞれ何かの儀式をしていた。中心にあるつるつるした石を磨いてココナツ液をかけたり花びらや赤・黄色の粉を塗ったり、水をかけたり…。

一連の儀式を見終わり、10Rs寄付箱に入れて寺院内を見て回った。ヒンドゥー教の不思議さ、様々な宗教の神様は全て同じでありヒンドゥー教に繋がっている、と。そんなような文章・絵画がいたるところにあった。これに関しては、肯定も否定もしない。

さて、寺院から出て小腹がすいたのでサモサとサモサの衣の部分(食べて分かった)を食べた。スイートチリソース一緒にもらった。座った次の瞬間、蜂が何匹も寄ってきたため、3つだった容器を2つにまとめ、一つ放置しておとりにして去った。コワいコワい。夜は確かGerman Bakery でThaliを食べた。

夜9:30頃、ドラムの鳴り響く音と祈りの声とが聞こえてきた。訊くと、Pujaの祈りだという。大きな音に驚いて起きた。外は小雨だった。



インド旅行記 4

【19th】


@Mohammad Good Earth Dhaba

・Morning set 25Rs

(Coffee or Tea, toast 4pcs, butter & jam, eggs, seasonal fresh fruit: banana)



@Taj Mahal

入場料 foreigner 750Rs(水、靴袋、ADA料金、Taj入場料含む…500 for Agra Development Authority:一度のみ支払うがチケット紛失の場合他施設入場の際再度必要。他4施設を入場料のみで入場可能/Agra fort, ファティープル・シークリー, sikandra)

政府公認のガイドと名乗る人が案内してくれた。後で知ったが、ガイド料金は575Rs~975Rsだった。Tajは実際に行って観る価値があったと感じた。あまり観光地は好きではない(写真で観れば行った気になって満足してしまう)のだが、大理石で造られたそのシルエットが青空に浮かんでいるようで本当に美しかった。天国へ行く道、という意味がこめられて造られたという。ドームが二重なのは万一上層が壊れてもムムターズ妃に被害が及ばないように、また4つのミナレットは外側に幾分か傾いているのは万一地震があっても内側に倒れないようにという理由。アラビックでコーラン(天国への門だったか…)の一節が側面に門の形に描かれているが、下から上に見上げても帯がまっすぐに見えるように目の錯覚を起こす仕掛け。つまり、実際には上部の幅は広く取られて描かれているということだ。なんとも素敵。Tajの中、妃の棺のレプリカのある場所(本物は地下)、そこは入り口の門から直線で結ばれている。夜のTajはまた美しいという。名前は忘れたが、ある赤い石は月光を反射させ、輝く。ものすごい数の石のピースを埋め込んで造られた数々の装飾は、技術力の高さ、権力の現れ、妃への愛、様々な意味がこめられていた。間近で見ていて、また来たい、いつか、月光に輝くその姿を見てみたい、そう思わせる程に幻想的な空間だった。

敷地内はとても広く、公園のようだった。細部まで手が込んでいて美しい。自分がインドに来ていることを忘れさせるように豊かな自然が広がっていた。

鮮やかなGreen Parrot、たくさんのリスも縦横無尽に駆け回っていた。どうもインドにはリスが多いようだ。

Tajミュージアム(10Rs)にはTaj、ムムターズ妃、シャー・ジャハーン等の絵画、使用されている宝石類などが展示されていた。

ガイドの青年は大学時代に歴史専攻だったということで、ガイドなしでの見学に比べ多くのことを学べたと感じた。(日本語ガイドの有無は不明。余談:H.I.S. Delhi支局は日帰り観光をやっている)大体2時間ほどで外に。

昼は、もうここしかない、とAgraに来る前から決めていたJonny’s Place(ジョニー!笑)で。

@Jonny’s Place

・Malai Kofta 60Rs (Malai:クリーミーソース、Kofta:ジャガイモコロッケ)

・Lemon soda 15Rs

とても美味しくて安かった。他の料理もきっと美味しいだろうと思う。ここはオススメのレストランと言える。

Guriという当時6ヶ月の猫がいた。とてもおとなしくて、かわいかった。カメラを鼻先まで近づけてもまったく動じないという、さすがインドの猫(?!)という感じだった。鼻筋の通った美形猫ちゃん。

ネットカフェでAgra fortまでの距離、歩き方、Agra Kantまでの行き方を調べ、まずインド最大のモスクと言われるJama Masjidへ向かう。子供が食べていたアイスが気になり、アイス屋(基本的に移動、遊園地にありそうな感じ)で(10Rs)購入。どうも、インドのアイスはふわふわ空気を含んでいるようだ。嫌いじゃない。味は、忘れたけど美味しかった。Jama Masjidまでは狭い混んだマーケットの中を通って、その中間くらいにある。東京の満員電車の車両の中を歩き回る、幅も混み具合も丁度その様な感じ。

で、汗だくでたどり着く。入り口で靴を脱ぎ、持っていたビニール袋にいれ持ち歩いた(どこへ行っても預けるよりこの方が、いくらチップを払うとか考えなくて良いので楽かもしれない。これ以前、以降ビニール持っていなかったので1~5Rs程で預けていた)。モスクのマネジャーという人が案内してくれた。お祈りの前に手足や口を清めるための水は階段を上がって広がる広場の中央にあった。そしてモスクには門の形にアラビア語が書いてあった。これはウルドゥーアラビックだということが分かった(ここもシャー・ジャハーンTajも同様)。いくつかお祈りの場所を見学させてもらい、また敷地内の一角ではUrduとArabicの授業だという。小学生くらいの子供たちが男女混合で授業に出ていた。マネジャーは、こんなことを言っていた。「インドではマイノリティの宗教となるイスラム教の肩身が狭い。特にテロの問題があってからは風当たりが強い」と。最後に寄付を求められたので、2人で200Rsと相方の名前で記入して広場に戻る。去り際に、日本のペンと交換してほしい、と言われ、どこかで私がもらってきた良く分からない企業の宣伝用ペンと交換した。

淵で休んでいると子供たちが寄ってきて「Pen!(ペン頂戴とのジェスチャーも)」と、3人ほど寄って来た。ムスリムではなく、多分その辺に住んでいる子供たちだろう。この広場は子供たちにとって格好の遊び場であるのは間違いない。何も無く広く、危険も少ない。ペンは1本しか無いので「Candy?」と聞くと大喜び!またここでもリーダー格の少年が手に出した飴を全部とっておっかけっこの奪い合いに!笑

散っていくと誰か別の子が来る。そしてさっきの子も「もう一個!」といってくるので、一人一つだから~!さっきあげたでしょ~!笑 と、他の子に配る。

すると、また別の子達が来た。今度はさっきもいたちびっ子1人が2人を連れてくる。名前を聞くとFarahahn,、Doli、Samirという。写真を撮って!というので、一緒に写真を撮った。すごくかわいい。そうこうしているうちに、授業の時間が終わったようだった。

そしてAgra Fortへ向かおうと腰を上げる。最後にその3人は、ペンやコインがほしいと言ってきた。私はペンはあげられないし、コインも無いと言い行くが、相方はコインをあげた。そして子供たちは去っていった。コインをあげたけれど、あまり後味は良くなかったらしい。

バックパックを背負っての移動は若干面倒だったこと、Agra Fortまで距離があることで近くの道路からオート(30Rs)に乗った。

Agra Fortの赤茶色は異空間にいるような感じだった。荷物を預けて中へ。途中、女子高校生たちの集団に遭遇し、一緒に写真を撮ってほしいと言われ、私も相方もそれぞれ彼女たちに囲まれる。残念ながら自分たちのカメラには彼女たちとの写真が一枚も残っていない…残念。相方が女子高生に囲まれている姿くらい写真に残しておけばよかった。ネタになったのに。笑

このAgra Fortはシャー・ジャハーンの息子が造り、父親を軟禁していた場所。遠くには美しいTajが見える。それは、もはや手の届かない、美しく遠い存在に思える。

さて、Agra Fort を後にして向かうのはAgra Tundla駅。列車じゃ着かない、オートは営業外だからいけない、だからやむなくtaxi(NAC)で向かうことに。オートに乗せてもらってtaxi会社へ。町中でカラーパウダーか何かを、ホーリーのときのようにつけている人たちが騒ぎながらたくさん歩いていた。DurgaというShivaの妻の神様に関するお祭りだという。

30kmあるらしく、車で1時間程かかるという。バスは乗り継ぎが必要とのことで、不安が残る。シゲタトラベル曰く、インド人価格でもtaxiは600Rsらしい。結局払った850Rs、どちらにしてもtaxiは高いから避けたかったが…。500Rsを先払いで、降りるときに残りをドライバーへ。

お腹がすいたのでタクシー会社のそばのレストランで食事を。

@Delhi Darwar Restaurant

・Thali 70Rs

・Water 15Rs

ここのThaliは美味しかった!多分、2週間の中で一番美味しかったと思う。



さて、Tundla駅へ向かう道中に驚いたこと一つ。相乗り車(トゥクトゥクのようなもの)や中型バスだかワゴンだか分からないけど、それくらいの大きさの車に、「定員?No Problem!落ちなければ何とかなるよ!」といわんばかりに人が溢れて乗車…というよりもしがみついている。3台程度、そんな車を見かけた。彼らの腕力と体力の平均値が高いことは確かだろう。40~50分程して、Agra Tundla駅に到着。荷物は「大きすぎる」ということで預かってもらえず。1時間ちょっと余裕があったため、メインロードの店を移動遊園地のあるところまで散策。移動遊園地はもう終わりの時間だったので、怪しく危険そうな観覧車には乗れなかった。残念なような、良かったような…。そこでたくさんの子供たちに囲まれる。中には24,5歳の兄ちゃんも。年齢とか、そんなこんなの話しながら、お決まり、写真撮ることになって撮ろうとしたら、閉演だからということで表に出される。そこで撮影の開始―!!!笑 みんな写真が大好き。普段、撮る機会は多くない。少ない。外国人と話をする機会もめったに無い。だから、外国人の自分は人気者になるし、写真を二人で撮りたがる。ピンで撮りたがる子も多い。いつのまにか少年にちゅーされてたり、本当にみんなかわいい。「Pappi!Pappi!」といって少年たちはほっぺにちゅーをねだる。映画の影響なのか、何の影響なのか、よく分からないけれど、たまにある。少年に紛れて20代の男の子らもハグとキス!と。どっちも無理です。許されるのは少年からのほっぺにちゅーだけですから♪

結局最大で20人ほど集まってきてた。どこから来たのか分からないけれど、とても多くの男の子たちと、少数の少女が集まっていた。駅に戻りつつ、付いてくる子達も。その中の一人が、ふとポケットから白い石のようなものを取り出し、私の口に入れた。手にも2つほど握らされた。それは、甘くて優しい、インドで一番好きな、そんなお菓子。多分メレンゲと砂糖で作ったものだと思う。食べ終わると同時に、またポケットから、今度はポン菓子を口に突っ込まれた。ポン菓子は日本の物と変わらない、優しくて、美味しい。もう少し時間があったから、駅そばのご飯やさんでジュースでも飲もうと思い、席に着く。Sprite(22Rs)飲む。しばらく座っていたら、店のおっちゃんが、ほとんど英語は分からないけど、「Chai?」と勧めてくれた。幾ばくか、かろうじて片言の英語で一生懸命話をしてくれた。時間も時間だったので、Chai代を払って後にしようと思ったのだが、おっちゃんは、「いいから!」と再三御代の受け取りを断られたので、好意に甘えさせていただいた。

Agra Tundla駅からBanarasへは12時間。予定時刻に発車した。初の寝台での就寝。3ACの最上段で、特に何の支障も無く就寝。

インド旅行記 3

【18th am】

Pahar Gandhi st.(メインバザール)のカフェがたくさん在る場所で朝食場所を探していると、舞子さんに遭遇。まさかまた逢うとは思わなかったため、びっくりした。その場は挨拶して別れた。

@Kosla Café

・Masala milk tea (chai) 10Rs

・Honey toast (brown bread 2pcs) 25



メインから少し外れた横道には、野菜市場があった。多くの旅人のいるメインバザールの一角なのだが、英語が一切話せないところをみると地元の人しかこないのだと思う。そこで大粒のマスカットのような実(Amura)があり、「sweet?」と聞くと「yes」と言って、一粒もらった。どうやって食べるのだろう?とそれっぽく訊いてみると、かじるジェスチャー。本当に甘いのかな~?と思いつつ、かじる。と、めちゃめちゃすっぱく、渋みが強いものだった。近くにいた英語が話せる地元のおじさんの説明によると、のどが渇いたときに潤すのによくかじるということだった。唾液腺が刺激されて確かにのどは潤った。

道端の商店で、(以降、店。日本的にイメージする店ではなく、カウンターが道に面してあり、シャッターでの開閉。規模は1~2畳くらいが多い)蚊除けクリームODOMOS(35Rs)、水1ℓ(10Rs)を購入。車内の昼食をいつどこで何を購入できるか分からなかったため、予めチャパティ/Rotiを2枚(1枚5Rs)購入。リンゴは1kg5~6個で60rs?と、そんな食べきれないため断念。

昼頃、Agra行きの列車に乗車3時間ほど。Sleepers Classという最も安いNAC車両に乗る。Chai売りと昼食売り(両方鉄道社員の制服を着ていた)がいたので、32RsのVeg. Thali(Dal:豆カレー、野菜カレー、ご飯、Roti、curd:ヨーグルト、水)を食べた。ゴミは…窓の外に投げ捨てる。それが普通なのだというし、実際道端でもゴミをそのように捨てているのだが、心苦しかった。ゴミ“誰か”が収集し、行く場所はどこ(eg.ゴミ箱)に捨ててもほぼ変わらない。もどかしすぎる。私はゴミをポイ捨てしなかった、と、自分を庇いたいという偽善のエゴから、せめてゴミ箱に捨てたいと思うのだが、ゴミ箱はほとんど無い。あったとしても、メインストリートにのみで、夜になれば道端にゴミ箱をひっくり返して、皆就寝するのだ。翌朝までには“誰か”が回収するから。

車内では食べ物を売る他に、お菓子売り、おしゃれ用のジップチャック付け替え行商、おもちゃ売りもいた。また肢体のどこかに障がいを持った人や、家族(父:Chai売り、母:歌?、4~5歳の息子:道化)などがコンパートメントの中で稼ぎをしていた。



<かわいそうだからコインを、という行為はしないということを決めてインドに来た。それはstreet children、障がい者、老人、どんな人に対しても同じ。同情からは自立ではなく依存が生まれ、自立を妨げる。私一人のその場の一瞬の行為で何が変わるわけでも、その人の何を変えられるわけでもないけれど、それが私の考えだから。だが、そのとき彼らを無視することは、心苦しさともどかしさを感じるばかりだった>



■印象に残った人々

・「娘の結婚持参金(dawry)ためにお金を下さい。洋服でも構いません(英語、ヒンディー語)」というカードを配る母親。

・推定40代の男性、右手の手首から先の骨が無く、ぐにゃっとしていた。手首の内側に縫った跡があった。



<dawryの問題は今も根深く残っている。結婚のために金品を女性側の家族が年収の何倍も払わなければならない。そのために莫大な借金を背負うこともしばしばだといわれる。資本主義の影響が大きく、貧富や教育の差には関係なく存在する。卒論に関係する内容であることから、とても興味深い場面に遭遇した。>

<肢体障がいは、意図的につくり出されることもしばしばあるという。ただ貧しいだけではお金はもらえない。まして男性では特にそうだろう。この男性もその一人だと思われる。他にも、ひじから下の腕が無く、ひじの部分からは縫った後と共に骨見えていた人もいた。思い返せば、女性の障がい者は施設以外では一人の聴覚障がい者を除き見なかった>



■小銭をもらえる人の順番(人々を見ていての推測)

子供>障がい者>大人



<子供はそのあどけなさからコインを集め易いように感じた。他の場所だが、しかし、生きる術を見つけようとし、生きるstreet childrenは、子供らしさ、その風貌と行動からあどけなさが失われている(環境によって奪われているというべきだろう)ように見えるからなのか、邪険に扱われているように見えた。生きる術を何かしら見つけることが出来なかった子供たちは、男女で別だと思うが、自ら、または親が障がいを“選ぶ”場合もあるのだろう。そうなってしまえば、プラスチックや紙、ビニール、服、その他を集めることも出来なくなるだろう。カーストと貧富の関係が必ずしも一致しないといわれる今、推測だが、自分のカーストのすべき仕事ではないとして資源集めや掃除を選ばない場合もあるのではないか、と思う。分からない…。ただ、生きるための選択として障がいを選ぶような環境が生まれている状況があるのは、何を変えることが出来るかわからないが、悔しい。>



■窓の外の景色

・スラム街(水が緑色、ごみの中にレンガor円形に固めた牛糞土壁の建物、ビニールか何かで覆ったキャンプにあるような簡易テント:三角ないしビニールハウス形)

・スラムには多くのヤギと幾ばくかの牛

・草っ原でヤギの飼育

・スラム街の向こうにカラフルな商業施設



<経済の発展があり、そこからトリクルダウンでボトムラインが上がっていく…。理論は分かるが、貧富の差は、天と地ほどの差がある。相方が「裕福な人たちは、貧しい人たちと、ごく一部の街中やメトロの駅周辺で、わずか一瞬すれ違うだけなんだろうな」と言っていた。が、それ以上に私はすれ違うこともないと思う。貧しい人は裕福な生活や人を様々な媒体を通して知ることが出来るが、裕福な人は貧しい人の生活を見ることはない。知らなくても生きることが出来る場所にいるから。NGO等が数多く存在するインドだが、いくら政府が政策を実行しても、なかなかボトムに届きにくいのは、インドがあまりに多様で複雑で数多くの問題や文化が絡み合って解けないからなのだろう>



【18th pm】

@Agra Kant

駅から安宿の多いTaj Mahal近くまで行こうと思うが、駅近くのオートリクシャー(人力車×バイク)やサイクルリクシャーの客引きがかなり多く、とりあえずTaj Mahal方面に歩くことに。10km弱あった道のり、6kmほど歩くとGandhi Gateなる門の先の広場で何か人が集まっていた。そばにいた少年たち曰くCommon Wealth Gameの一つだ、というが地域の交流会に見えた。さすがに長距離歩いたのは疲れ、オートリクシャーを捕まえ、チケットカウンター近くまで20Rsで連れて行ってもらった。

Shanti Loggeの新館に泊まった。ダブル一泊400Rs。それなりに部屋は広く、まぁ悪くは無いのだが、旧館の方がきれいだったし安かったので、もう少ししっかり見定めする必要があった。

夕方、チケットカウンターの場所と周辺を散歩。途中、お土産売りの子供たちが何人か来た。お土産は買わない予定だったが、ちょっと交流したかったので「Candy?(あめほしい?)」と聞いてみた。するとニヤけながら少年の顔に戻って頷いた。いくつか飴を出した。3人いたが5つくらい手に出して一個ね!とジェスチャー。が、リーダー格?一番気の強い?少年が全部とって、分配、というか取り合いを開始!笑 そして、道に座って物を売っていた他の少年に飴を一つ渡していた。お菓子は、子供に無邪気な瞬間を返してくれる。

日中~夕食までTaj Mahalの見えるShanti LoggeのRoof top restaurant に行き夕食。

@Shanti Logge

・Chai (pot) 40Rs

・Papad (crispy n salty stack) 10Rs

・Mutton masala 100Rs

・Roti 5Rs

インド旅行記 2

【17th pm】


Indira Gandhi international airport @Delhiに到着し、両替を考えるためにまず税関前の両替所(2箇所)をチェックするが事前情報と通りレートが悪い。税関後の両替所(1箇所)も悪かった。市内で交換するには、事前に望める情報を得ることができなかったため、結局空港から市内の送迎を依頼していたシゲタトラベル で両替することにした(2万円)。レートは1万円で5000Rsと、決して良くはないが、空港に比べればいくらかましであり、知らない両替所で不要な心配をする必要が無いため安心を買った。

もう一人同席する人がいるということで、その人と一緒にCottage Yes Please(CYP)に行く。その人は岡本舞子さん というNPO法人On the Roadを運営している方だった。すばらしい偶然の出逢いに感謝だ!出だしから恵まれている。バスに乗り込み、運営しているschoolと収入源のゲストハウスの話を伺い、連絡先を頂き、Banarasでゲストハウスに行く事を約束した。CYPで予約を依頼していた寝台列車のチケットを受け取り、代金と手数料(200Rp/per 1ticket)。MakeMyTripで予約しようとしたがクレジットカードが使用できなかったため、やむなく依頼。長期の旅であれば駅のカウンターに行って予約したかったが2週間では時間に限りがあるため現地では満席の可能性が高かった。予約は2週間以上前が望ましいという。今回は、ちょうど到着日がBangladeshの新年らしく、またその前後に様々な祭りが重なっていたこともあり、Banaras→Kolkataの寝台がweb上ですらほぼ満席状態だった。支払いと両替を済ませ、ホテルに送ってもらった。初日の宿はHotel Glow innで、ダブルNon Air Condition(NAC)一泊450Rp。後々思い返すと、コストパフォーマンスが良くなかった。笑

慣れがないと宿を決めるのは難しい。一緒に旅していた人も、バックパッカーではなかったので、インドの状況は全く分からず、また自分も北京で一泊1000円弱のドミ宿泊経験のみだったため、そのときの環境との違いに驚いた。2週間の間に勉強しよう、そう思った一日だった。

その晩の夕食はGreen Chiliという店で食事。地球の歩き方には手頃で美味しいとの評価だったが、2週間の旅で最も高額な食事だった。ただ、清潔さはそれなりにあった。

@Green Chili

・Veg. Green Curry (spinach&Cheeseを頼みたかったが、単語を忘れた。Thai風) 190Rs

・Chicken Masara 140Rs (相方)

・Tandoor Chicken half size 120 Rs

・Plane naan 2pcs 20 Rs

・Rassi salt 50Rs, sweet 60Rs

=653Rp(580Rs×12.5%サ税)



この店は地元の人も多く来店していた。混んでいたこともあり、相席だった。隣の人(25歳だというが、35歳くらいに見えた)とのおしゃべりは楽しかった。「俺はずっとDelhiに住んでいる!明日からAgraだって?俺はTaj Mahalは嫌いだ!まずDelhiにはたくさんの見所がある。それを見てから行くべきだね。私はTajは見たこと無いが、Delhiの方が素晴らしいんだ!」とてもDelhiを愛している様子でした。そして帰り際に、その人と一緒にいた人と「こいつと握手をしてくれ。こいつはシャイなんだ。だから握手してくれ」と。よくわからないが、とりあえず握手してその場を去っていった。

道沿いにあるお店で水1ℓ(10Rs)を買って宿に戻り、就寝。

インド旅行記 1

Sri Lanka
16th pm
StayPegasus Reef Hotel
Sri Lankan Airline サービスの一環で一泊滞在した。飛行機のトランジットが8時間以上24時間以内の場合に発生するサービス。コロンボ空港から車で4050分程走り、郊外に在る。静かで、海がすぐ脇にある3-starのホテル。
到着日はロビーフロアのホールでミニコンサート(歌)があったので、レストランに行った。が、レストランとイベントホールは別だったため、少しだけブッフェの料理をプレートに。レストランのマネジャーらしき人が話しかけてくれた。確か5年ほど日本の旅行会社で勤めていたということで日本語が話せる。とても気さくで、親切な印象を受けた。

17th am
朝、カーテンを開けると外は強い風。少しだけ雨が降っていた。窓の外のタイルにはカタツムリがいた。外に出てみた。5cmくらいの大きな、巻貝のような形。その後の散歩中にも、いたる窪みで見つけた。海のそばに生息するのだから、他の種に比べ海の塩に強いのだろう。
部屋に入り、カーテンを閉めようとすると、小柄なおっちゃんが手を振ってきた。手を振り替えしたら近くに来たので、少し話すと、「alligatorがいるから見に来ないか?ココナッツジュースがあるから飲まないか?」と言う。朝食に行く前だったので、その様に断った。近くに河があるらしい。
朝食を食べようとレストランに行った。外は大雨、強風!だったが30分もしたらほとんど止んだのでお散歩に。

おっちゃん再来~

カヌークルーズのお誘いに写真集を持ってきてくれた。一人$65で!・・・って高っ!笑
その後も「fish marketが近くにあるから行かないか」「ココナッツジュースを飲まないか」「alligatorを見に行かないか」などなどのお誘いを受けたが、また今度来たときに、といって断った。両替していないし、Sri Lankaで使う予定もなかったからだ。
海岸を歩いていると、様々な場所から漂流してきたゴミがたくさんあった。
1、靴
2、洋服
3、中くらいのプラスチック容器

そして小柄なカラス(日本のからすの1/2位)がたくさんいた。たまに犬がいた。砂は粗く、琥珀色の石が1mm角ほどだったように思う。

表の道路に出て、散歩をし、幼稚園のような施設があったので気になって近くにいたら、腰布を巻いただけのおっちゃんが来た。「中に入れるよ」というので付いていていくことにした。おっちゃんは施設と関係ないらしいが、友人が働いてるという。特に見学は誰の許可が必要というわけではなく、職員にhelloAyubowanHello in シンハラ語)と言うと笑顔で返答してくれた。

ここはPrithipra Infant Homeという障がい児のケア施設だった。支援元がどこだったかはメモし忘れてしまった。生後数ヶ月から10代後半が主に多く、また老年の人たちもいた。施設では日本人を含む外国人が働いているという。宗教[1] に関しては、とてもユニークだった。高さ170cmくらいの四角い、屋根の付いた柱が屋外小スペースにあり、四方にそれぞれ仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教の神様ないし教祖が祭ってあった。オープンかつ無宗教の施設といえるのかもしれない。それぞれの宗教が同一の場所に祭られている光景は不思議な光景だった。(後に、町中の道角に各宗教の神様や教祖がケースに入って祭られていたのを見て、Sri Lanka、少なくともコロンボではこれらの光景は不思議ではないのだと感じた)

基本的に、親はいない。だが、笑いかけると、子供たちは笑顔で返してくれた。屋外には様々なおもちゃがあるプレイルームがあり、施設はそれなりに充実している印象を受けた。
施設を見学し、おっちゃんが「ココナッツジュースを飲まないか」と言われたので、付いていた。とある家(おっちゃんの知人の家)に行き、30代に見えるfishermanのおじさんがココナッツの上部を切ってストローを刺してくれた。本当はココナツジュースがあまり好きではないが、全部飲んで、ココナッツの果肉もちょっと食べた。お腹がたぷたぷ。

するとおっちゃんが貝殻を持って現れた。Fishermanのおじさんが言うに「この人は本当に貧しいんだ。彼は貝殻を売って生計を立てている。買ってくれないか。」という。貝殻は壊れるし、持って変えるのに苦労するため買わなかったが、500円を渡してきた。「コインはexchangeが難しい。だからbillがほしい。」といわれたが、500円は$5と同じ価値があると伝え納得してもらった。1000円を渡すなどチップとしてはあまりにも高額すぎる。500円でもガイド+ココナッツジュースのチップとしては高額。ドルを持っていたら、せいぜい$2だと思う。それでも現地の物価を考えても、高額だと思うが・・・。ただ、宿泊先の施設は日本人がよくトランジットで利用するようなので、500円玉であれば今後他の人からもらえると考え、2枚集まったら1000円札に交換してくれる人も現れるだろうと踏んでのことである。

その後、路地に入る。舗装された道沿いの土にはたくさんの蟹がいた。海と河に挟まれていることから淡水の蟹だと思う。甲羅の大きさは5~7cmくらいに。5分ほど歩くと河があった。道の一部で赤い蟻に襲われた!噛まれると本当に痛い。クロックスの隙間から入ってきたり、クロックスに噛みついたりしていた。噛まれるので足をばたばたさせたりクロックス吹っ飛ばしたりして、周りにいた子供たちに面白がられた。笑

河沿いにはボートがたくさん並んでいて、水中には幾ばくかの魚が見えた。他は特に何を見つけることも出来なかったので、ホテルに戻り、11:30にバスが来るのを待っていた。
すれ違う人たちは、外国人が珍しいのか笑いかけると笑顔で返してくれた。


[1] Sri Lankaの民族と宗教 Resources from CIA Fact Book
Ethnic groups: Sinhalese 73.8%, Sri Lankan Moors 7.2%, Indian Tamil 4.6%, Sri Lankan Tamil 3.9%, other 0.5%, unspecified 10% (2001 census provisional data)
Religions: Buddhist 69.1%, Muslim 7.6%, Hindu 7.1%, Christian 6.2%, unspecified 10% (2001 census provisional data) 

インド旅行記 0


インド旅行記 20101016日―30

My Purpose for this travel
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知りたい

2週間はそれなりに長いと思った。
でも、終えるとなんて短いと思った。

できるだけ長く、留まっていたいと思うようになった。

2週間に何をしたのか、何を感じたのか、
私の頭の中にある、出来る限りの想い出を
一つ一つ漏れの無いように書き出した。